青森の東北地区高校進路指導協議会研究大会で講演。

青森の平成27年度東北地区高等学校進路指導協議会研究大会で講演を行った。
この研究大会のテーマは「「学び続ける」社会で生き抜く力を育む進路指導のあり方」。

東北6県すなわち青森、岩手、秋田、宮城、山形、福島の進路指導の先生たち、そしてそれを応援する各高等学校の校長先生たちの集まりである。

今回は青森県を中心に各県から担当者が集まっていた。その総勢は150名だった。

東北地区高等学校進路指導協議会会長で秋田県立能代工業高等学校山田校長の挨拶、来賓の挨拶は青森県教育委員会の中村教育長。

その後が私の講演。
演題は「アタマ(図解)とココロ(人物)を鍛えるキャリア教育に挑む」。
こういった分野の専門家ではないが、私の民間企業から大学へ転身したキャリア、そしてその方面の著作などに関心を持って呼んでもらうことになった。

1時間40分の長い講演となったが、熱心に聞いてくれたと思う。

昼食時を含め名刺交換した方々は以下の通り。
青森県教育長学校教育課高等学校指導グループの小笠原指導主事。
岩手県立黒沢尻北高等学校の菊地校長。
宮城県仙台南高校の小田校長
鶴岡東高等学校の斎藤校長。
秋田県立能代工業高等学校の山田校長。
青森県弘前南高等学校の三上校長。

昼食時には、進路指導の状況、高校と大学の接続についての議論、などが話題になった。

第二部は分科会。第一部分科会は進学指導、第二分科会は就職指導。
進路指導分科会の方を覗いてみた。
ここでは最初の発表である岩手県立盛岡第一高等学校の吉田教諭の発表を聞いた。テーマは「本校における進路指導」。この高校は岩手県随一の進学校であるが地元志向が強くなっているようだった。
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終了後、レンタカーを借りて黒石市へ向かった。
ここには秋田雨雀記念館がある。

雨雀は明治16年生まれ。少年時代に病弱であったため自分を卑下する気持ちで雨雀と呼んでいたが、それが後のペンネームになった。
現場小学校の同級生に生涯の友人でありライバルであった口語歌人の鳴海要吉がいる。
早稲田に進学する。
明治40年には小説「同性の愛」と言う名前の処女作を発表し注目を浴びる。その後、戯曲、小説、詩、童話、随筆、評論等を手がけた。
また、新劇運動やエスペラント運動などにものめり込んだ。
戦争賛美者を批判し、昭和2年にはソ連より国賓として招かれている。その後日ソ文化協会や極東平和の会等の設立にも努力をしている。
代表作の「みつばちの子の巣立つ朝」は作詞は秋田雨雀であり作曲は山田耕作である。
当時の友人達との手紙のやり取りを見ることができた。高村光太郎山田五十鈴、など著名な人たちとの交流を伺い知ることができた。

国際語エスペラントについての掲示があった。
エスペラントとは希望の人という意味である。19世紀末にユダヤ人のラサロ・ザメンホフ方という人物によって考案された人造語だ。彼は人種の入り組んだリトアニアで生まれている。世界を1つの言葉で結びたいという希望を持って作った。1906年には日本エスペラント協会が発足している。
雨雀は「平和の戦士として全世界の人々の中に入り真の民主主義確立と理想実現のため行動すべきだ」という言葉を述べている。

著作類が並んでいた。
秋田雨雀日記。50年生活年譜。あかつきへの旅50年自伝記録。句歌集の不死鳥、、、。
1932年の生誕50年祝賀会では「日本社会における1つの良心的存在として生きていきたいと述べている。

昭和23年には舞台芸術学院の院長。
68歳になった時、日本児童文学者協会の二代目の会長に推されている。初代は、小川未明であった。
昭和35年には黒石市の名誉市民に選ばれている。昭和39 年に79歳で死亡した。

あらゆることに興味があり、そしてどの分野にも才能があり、そして並外れたエネルギーの持ち主であったようだ。

大町桂月が愛した板留温泉の斉川に宿泊。

「名言の暦」10月16日
命日

  • ジョン・ハンター1793:考えたことや見聞きしたことを書き留めるのは、商人が棚卸しをするのと同じだ。
  • マリー・アントワネット1793:パンがなければお菓子を食べればいいじゃない。
  • 野間清治1938:面白くて為(ため)になる

生誕