歌川広重「六十余州名所図会」と「名所江戸百景」

サントリー美術館の「原安三郎コレクション 広重ビビッド」展。

原安三郎のコレクションには2006年に仙台三越で開催された「北斎と広重」展で触れたことがある。
サントリー美術館で購入した資料によると、2005年から全国7カ所で巡回開催されたのが、一般への初公開だったとあるから、その展覧会を見たわけだ。240点の出品があり」「思いのほか大きい展覧会」との感想を持った。以下、その時のブログから。
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歌川広重(1797年ーー1858年)は、北斎より37年後に生まれた。13歳で定火消同心の家督を継ぐが、15歳で歌川豊広に入門し、27歳で家督を譲り制作に専念する。大胆な構図を得意とした北斎に対し、「江戸のカメラマン」と呼ばれた広重は写生的な作風だ。ゴッホ(1853--1890年)は、広重の晩年の作に強い影響を受けている。
代表作である「東海道五十三次之内」は、北斎富嶽三十六景と比較されるが、広重は道中の臨場感を出すために人物を大胆に配し、観る人に旅の疑似体験をさせようとする意図が見てとれる。
オランダ・アムステルダムの国立ゴッホ美術館には500点近い浮世絵版画が所蔵されているが、1880年代のヨーロッパはジャポニズムが開花した時期だ。ゴッホの「花咲く梅ノ木」は、浮世絵そのものの模写に近い。「雨中の橋」は油絵で描いた浮世絵である。有名な「タンギー親父の肖像」は、よく観ると背景に花魁、役者絵、富士、桜などを配しているのは面白い。ゴッホは「私の仕事の全てはある意味で日本美術を基礎としている」とも語っているから、広重の西洋の遠近法である透視図法を充分に消化してすっきりとした整理された作風は、絵画の世界において後の世に与えた影響は非常に大きいことがわかる。
北斎と広重という二人のライバルは、作風、画名の考え方、生活のレベル、主観と客観、弟子の多少、死への考え方など、対照的な人生を送っている。
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サントリー美術館の「原安三郎コレクション 広重ビビッド」展。

歌川広重の57歳から62歳までの6年間の晩年の大作・代表作。
初摺でもあり、保存状態もよく、最高の揃物である。

「六十余州名所図会」。70枚。
61「豊前 羅漢寺 下道」は大分県中津市。競秀峰、青の同門、羅漢寺下道、山国川、日田往還、至羅漢寺。

全国5機内7道の名所を描くという一大スケールの揃物が見応えがあったが、特に印象に残ったものを記す。

  • 伊豆 修善寺 湯治場
  • 江戸 浅草市(初摺)と(後摺):色合いが違う。
  • 美濃 養老の滝:大木のごとき青い滝。
  • 飛騨 籠わたし
  • 下野 日光山 裏見ノ滝:滝が見事。
  • 伯耆 大野 大山遠望:まろやかな大山。
  • 出雲 大社 ほとほとの図:手前の娘達のあでやかさと遠くの人たちの白黒の薄さのコントラスト。
  • 美作 山伏谷:太い斜めの風雨の迫力。
  • 阿波 鳴門の風波:怒濤の渦と白い波頭。

「名所江戸百景」120枚。
安政江戸大地震(幕末の天災の中で被害は最大級)の直後から発表が始まった。
先んじて出板された「絵本江戸土産」は、江戸の名跡のガイドブックとして重宝されたベストセラーだった。

  • するかてふ
  • 大伝馬町こふく店:火消し隊。
  • 大はしあたけの夕立:ゴッホが模写
  • 深川萬年橋:桶、橋、亀。
  • 水道橋駿河台:大鯉のぼり
  • 箕輪金杉三河しま:鶴
  • よし原日本堤
  • 浅草田浦酉の町詣:猫
  • 亀戸梅屋敷:ゴッホが模写
  • 深川州崎十万坪:大鷲
  • 月の岬
  • 目黒元富士
  • 王子不動之滝:木のような滝。
  • 真間の紅葉手古那の社継はし

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今日のオーディブル。
久保田達也の「iPhoneiPadが変える仕事術」を4本まとめて聴く。

  • アップルは発想支援ツールがテーマ。楽しいこと。アイフォンアプリ開発。
  • アマゾン出版は印税70%。絶版本。専任弁護士も。アルゴリズムによるマーケティング。翻訳システム。前金。
  • グーグルは知識の検索がテーマ。水力発電(砂漠)。風力発電(偏西風)。アンドロイド用に開放・オープン。

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「名言との対話」5月29日。与謝野晶子

  • 「人は何事にせよ、自己に適した一能一芸に深く達してさえおればよろしい。」
    • 歌人。堺の出身。本名志よう。旧姓鳳。与謝野鉄幹の妻。新詩社に加わり「明星」に詩歌を発表。大胆な官能の解放を歌い、その奔放で情熱的な作風は浪漫主義運動に一時代を画し、また、古典の研究にも業績を残した。著「みだれ髪」「小扇」「白桜集」「新訳源氏物語」など。1878〜1942年。
    • 「十余年われが書きためし草稿の跡あるべきや学院の灰」。「12歳の時からの恩師」と呼ぶ紫式部源氏物語の新訳は、1909年に依頼を受けライフワークとして取り組んで、1939年(昭和14年)に全6巻を完成している。途中の関東大震災によって原稿が焼失するなどの悲劇があり、乗り越えている「源氏をば一人になりて後に書く紫女年若くわれは然らず」
    • 「歌に上達しようと思うなら恋をしなさい。」
    • 与謝野晶子(1878−1942)は歌も素晴らしいが、その生きるエネルギーが凄まじい。与謝野晶子は、生涯で5万余首の歌を詠んだ。斉藤茂吉の3倍以上である。
    • 与謝野晶子は夫・鉄幹との間に実に11人の子供をもうけている。11回の出産で双子が二組あったから13人となるが、死産と直後の死亡で育ったのが11人となる。24歳から41歳までいつも妊娠状態だった、ということになる。その中であれだけの膨大でかつ優れた仕事を成し遂げたことに驚かざるを得ない。生前の歌集は21冊。作歌時代には1年1冊で歌集を刊行。
    • 与謝野晶子は「一能一芸」を深く究めよという。その通りだろうが、恋愛、家族愛、教育、著作、作歌、あらゆる分野に抜きんでた巨人・与謝野晶子。そのエネルギー源は、いったい何だったのだろうか。