横浜:岩崎ミュージアム。鮎川信夫。エリスマン。国吉康雄。

横浜探訪。
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岩崎ミュージアム・山手ゲーテ座。

1927年(昭和2年)に創立された岩崎学園横浜洋装学院(現・横浜fカレッジ)の50周年記念事業の一環として1980年に建設。服飾教育の実践をもとに、ファッションに関する資料やアール・ヌーヴォー期の工芸品等を展示。敷地はフランス人建築家サルダ設計の劇場「ゲーテ座」の跡地。ゲーテは英語のGaiety(愉快・陽気)に由来。1981年には外国人劇団による「ハムレット」が通し公演され、坪内逍遙北村透谷らが観劇。小山内薫谷崎潤一郎芥川龍之介大佛次郎らが足繁く通った。関東大震災で崩壊した。

  • 岩崎春子
  • 安藤ニキ個展を観る:1984年生。渋沢龍彦のファン。
  • 山手ゲーテ座:ホール。100人席収容。オランダ人ヘフトが1885年につくった。現在でもこのホールやギャラリーでは各種イベントを開催している。手に入れた「岩崎博物館情報」2016年5月・6月号には、林保次郎展、セデルテリエのアーチスト展、2M会展、劇団鳥獣戯画「三人でシェクスピア」、英語劇、サロンコンサート、横浜山手ヘフト祭、、、など企画が満載だった。生きているミュージアムだ。

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神奈川近代文学館にて「鮎川信夫と「荒地」展」。没後30年記念。

詩人・評論家。1920-1986年。享年66歳。
19歳で「荒地」を創刊。20歳早稲田大入学。22歳近衛歩兵第四連隊入隊、スマトラ島北部へ。24歳傷病兵として帰還。
友人達との手紙のやりとりが展示されている。
「乞食になったり犯罪をおかしたりする以上の地獄の責苦がらうという初年兵の教育」。

親しくなった吉本隆明は、「繋船ホテルの朝の、、」を戦後詩屈指の名作と褒めている。
弔辞は大岡信三浦雅士吉本隆明
鮎川信夫賞は現代詩の未来を展望させる著作に与えられるが、2009年の第1回は谷川俊太郎が受賞している。
売店で鮎川信夫「近代詩から現代詩へ−−明治、大正、昭和の詩人」(詩の森文庫)を購入。
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エリスマン邸で昼食。
エリスマンはスイス人のシーベル・ヘグナー商会支配人。

建築はチェコ人のA・レーモンド。この人はF.L.ライトが帝国ホテル建設の来日に一緒に来た人で、日本では前川国男などを育てた。日本現代建築の父。高崎哲学堂(旧井上房次郎邸)も建築。
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外国人墓地資料館。
外人墓地は2万ヘーベ。4200柱。40数カ国の国籍の外国人が眠っている。ギリシャ正教フリーメイスン、、、など墓の形は様々。

1854年のペリー来航時に、ミシシッピ号船上の事故で亡くなった水兵(海兵隊員)を埋葬したことから始まった。生麦事件、井土ヶ谷事件などで死亡した人なども埋葬されている。
「美人の栄華 富豪の驕奢 熟ずれか 無常の風に逢はざらん 光栄の路 向かふ所は 墳墓のみ」(トーマス・グレー)という文字が刻まれた金属製の板。
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横浜そごう美術館にて「国吉康雄展」。
1906年に16歳で移民としてアメリカにわたり、アメリカで最も高く評価された画家となった国吉康雄の企画展。詳細は明日。

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「名言との対話」6月12日。大平正芳

  • 「着々寸進、洋々万里」
    • 衆議院議員(11期)、内閣官房長官(第21・22代)、外務大臣(第92・93・100・101代)、通商産業大臣(第31代)、大蔵大臣(第79・80代)、内閣総理大臣(第68・69代)などを歴任した。1980年の衆参同日選で6月12日に急死。
    • 「均衡と中庸。だえんの哲学。物事には二つの中心があり、どちらかに傾斜することなく、中正の立場を貫くのが重要である。統制と自由、権力と国民、課税者と納税者、、、、。」
    • 「今共産主義も弾圧ではなく、大きく呑み込み解毒しつつ消化しなくてはならぬ。」
    • 「立派なものはこの世の中にはないと思う。私は改革ということに対して、その点についてはややニヒルでしてね。」
    • 大平は大向こうをうならぜるような言葉は吐かない。一歩一歩少しづつ着実に歩を進める。一挙の改革では無く小さな改善を継続する。そうすると万里を超えて、大洋に届くというのが信条であった。これが本来の保守の姿だ。また反対派は大きく飲み込み解毒し消化するという大いなる妥協の精神もこの人の真骨頂だろう。