吉田茂は高知の自由党の志士であった竹内綱の五男として東京で生まれている。後に、68歳で自由党総裁となり内閣を組織するという因縁がった。3歳で横浜の貿易商吉田健三の養子になる。明治維新の大立者であった大久保利通の子供であった牧野伸顕伯爵の娘を娶ったが、吉田健三の妻の祖父、つまり吉田茂の曽祖父は江戸時代の大儒・佐藤一斉だった。茂の娘・和子が夫・麻生太賀吉との間に設けたのが、小泉内閣の麻生太郎総務大臣というわけだ。サンフランシスコ講和会議では、参加51カ国で、日本との講和に賛成48、反対3で講和条約が成立した。署名は主席全権の吉田茂だった。89歳で死去するまで政治的に大きな影響力を持った吉田は、東京帝大を28歳で卒業、50歳で外務次官、外相は67歳、首相は68歳というから随分と遅咲きである。そして75歳で第5次内閣を組織するなど政治的にも長命であった。昭和21年5月から29年12月まで首相在任期間は2616日となった。
「あなたは国家と国民がいちばん苦しんでいる時に登場され、国民の苦悩をよく受けとめ、自由を守り平和に徹する戦後日本の進むべき方向を定め、もっとも困難な時期における指導者としての責務を立派に果たされました。、、、あなたは、なにものにもまして祖国日本を愛し、誰よりも日本人としての自負心を抱いておられました、、、」。遅咲きで67才で総理になり、76歳まで第5次にわたって組閣し、89歳で亡くなった宰相・吉田茂(1878−1967年)の国葬の葬儀委員長を務めた佐藤栄作首相の弔辞である。
吉田茂は第一回の生存者受勲で大勲位菊花大綬章をもらった。そのとき、養父・健三の墓前で「相続した財産はすべて使い切りましたが、こうして大勲位をいただきましたのでご勘弁ください」と報告している。
富士山と皇室が日本だと語っていた吉田茂は、「歴史を知らない国民は亡びる」と語っていた。戦後の日本人は日本の歴史を学んでいるだろうか。特に近代から現代にかけての歴史観を持ち得ているだろうか。常に自らに問うべき至言である。