福沢旧居・記念館

 郷里の偉人・福沢諭吉先生の旧居には、子供の頃から何回訪ねているだろう。豊前中津藩の下級武士の実家の土蔵の2階にある勉強部屋を覗く。5畳の部屋に木の書見台が置いてある。

 記念館ではまず、ビデオを見る。中津人への呼びかけである「中津留別の書」の中にある有名な言葉「天は人に上に人を造らず 人の下に人を造らず と言えり」は、39歳のときに出た「学問のすすめ」に収録されて人口に膾炙したこと。初版20万部、偽版22万部として、当時の日本の人口3500万人の160人に一人が読んだという空前のベストセラーであったこと。この出版業の隆盛が慶應義塾の原資になったこと。貧富の違いなどは、学ぶものと学ばざるものとの違いにあり、日常生活に役に立つ学問が大切であること。個人が独立し、家が栄え、天下国家が栄えることなどが説明されている。

 当時「文部省は竹橋にあり 文部卿は三田にあり」と言われたという。成田市長沼に力を貸した逸話も初めて聞いた。小川武兵との交流、御礼に味噌漬けを100年以上送り続けているという話も曾孫が語っていた。

 1900年には、世紀送別会で「独立自尊迎新世紀」を演説した。

 福沢諭吉の戒名は、「大観院独立自尊居士」という。

 慶應義塾の「義塾」は、公衆のための義捐の金をもって建学する学塾で学費を収めないものという意味だそうだ。福沢がつくった中津市学校(1871−1881年)は当時、西日本第一の英学校といわれたが、慶應の教授たちが教えた。

 昭和24年には天皇陛下行幸、そして昭和41年には皇太子夫妻の行啓があった。母は行幸を覚えており、私は高校生のときの行啓を覚えていた。

 福沢諭吉には9人の子供があった。男4人、女5人で、長男一太郎慶應義塾社社頭・塾長、次男捨次郎は時事新報社社長。

 「福翁自伝」の末尾には「回顧すれば六十何年、人生既往を想へば恍として夢の如しとは毎度聞く所であるが、私の夢は至極変化の多い賑やかな夢でした」とあった。

 系図を見ていると、曾孫の美和は昭和2年生まれだった。私の母と同年だったから、福沢諭吉は母のひいおじいさんという感覚になる。

 民間に独立して思うところを主張すべきと論じた「学者安心論」、政権は中央政府・治権は地方にと論じた「分権論」、小吏になることを否定し官途以外に無限の広い世界があると論じた「士人処世論」などの本があった。いずれきちんと読んでみたい。

 隣の諭吉茶屋で「独立自尊」「天は人の上に、、、」の書とともに、「今日も生涯の一日なり」が気に入って買った。

 福沢旧居には何度も訪れているが、そのときの心境や問題意識で見えるものが違う。自分と同じ年齢のときに何をしていたか、どのような心境だったか、、、、。訪れるたびに郷里の偉人を鏡として、自分の変化も意識する。人物記念館の旅にはそういう楽しみ方もある。


 隣の敷地に増田宗太郎の記念碑があった。中津在住の作家・松下竜一の「疾風の人」に詳しいが、福沢のまたいとこであるこの宗太郎も相当の人物だったようだ。今は増田宗太郎は誰も振り返らないそうだが、軍国主義時代には中津では福沢の評判は地に落ち、西南の役で中津隊の隊長として西郷隆盛とともに没した増田宗太郎を評価する人が多かったそうだ。時代の空気の変化の中で、福沢ほどの人物も評価の乱高下があったというから驚く。 


 午前中は、高校2年生のときの担任東浜先生(今は武本)

自宅に伺う。母親と奥様が親友なのでご挨拶に。


 夕方は高校時代の同級会に参加。10人くらいの仲間と気の置けない会話で本当に楽しかった。