築館町の白鳥省吾記念館を訪問。
大正から昭和へかけての民衆派の詩人。記念館の隣に建っている図書館には、「白鳥省吾賞授賞式」という張り紙があった。何と今日2月27日はこの人物の誕生日で、賞の受賞式典がある日だったのだ。偶然に驚く。記念館は通常210円の入館料をとるのだが、記念碑は無料とのことで何か得をした気持ちになる。白鳥省吾は目明治3年(1890年)生まれで、昭和48年(1973年)に83歳で亡くなっている。当時の早稲田大学では坪内逍遥、島村抱月らが教鞭をとっていた。卒業時の総長は大隈重信だ。藤村・晩翠の新体詩に影響を受ける。生涯の著作は、80冊。詩以外に随筆、民謡、同様、校歌作詞なども手がけた。郷里のかなりの数の校歌は省吾の作品が多い。
築館町民歌、岩出山町民歌、塩釜町民歌、岩出山小唄、鳴子温泉小唄、中新田小唄、厳美渓小唄、若柳小唄、高清水音頭、栗駒音頭、松島甚句、女皮小唄、、、。
校歌は83篇に及んでいる。
生前の書斎を模した空間があったが、おの書斎は1955年から1973年に没するまで暮らした千葉県稲毛の自宅の書斎である。
先日晩翠草堂を訪ねた際に、晩翠のための詩を記した書が飾ってあったが、それはこの省吾の作だった。昭和24年5月には晩翠を訪ねており、晩翠が文化勲章を受けた時には省吾が記念講演をしている
81歳の時に、生涯の師であるホイットマン(近代の思想と科学を詩に取り入れほめたたえた詩人)の詩蹟を訪ねて長男東吾のいるアメリカへ旅行をする。昭和46年のことだが、JAL機はホノルル・サンフランシスコ・ニューヨークという便で、JL001便のエコノミーの切符が飾ってあった。1ドル360円時代。私の日本航空入社は昭和48年だから、その寸前にアメリカ旅行をしたということになる。1ドルが308円になったのはその直後だった。
長男東吾から次女真木子あてのエアメールが展示されていた。「田美ちゃんへ。「へ」は出しても「ひ」は決して出さぬように注意!」という姪に対するユーモアのある一言もあった。
ロッキーの残雪超えて開眼す
白亜館の噴水噴出し花紅し
(ホワイトハウス)
アメリカ外遊にあたっての詩。
「万巻の書を読み
千里の道を行き
生死を天に任じ
世界の山河に放吟す」(省吾82歳)
吾は想ふ
「風の自由 大地の健康
星の永遠 大地のかくしゃく
それら一切のごとく
形体の束縛を脱して
恒久の苦悶に堪え
歓喜の大道を歩まむ」
昭和43年に勲四等を受けた時は佐藤栄作総理からで、昭和48年に銀杯一個を授かった時の総理は田中角栄の署名があった。
娘の白鳥園枝も詩人で現在は99歳で、受賞式のために文章を寄せていた。この人の作った詩では千昌夫が歌ってヒットした「星影のワルツ」が有名だ。
「真の詩とは実生活を鮮やかに感じ、自分の生活をよくするために存在するのである。」