乃木神社(乃木希典)、山縣有朋記念館 (栃木県)

乃木神社・乃木記念館


 日露戦争の英雄・乃木希典を祭った乃木神社では、2004年12月から2005年5月にかけて日露戦争大掃100年祭が行われている。2004年12月5日は203高地陥落100周年、2005年1月2日は旅順陥落100周年、3月10日は奉天会戦、5月28日は日本海海戦。この100年祭は「日露両国の殉国者を共に慰霊」という趣旨だった。

 乃木記念館には「忠孝」と達筆で書かれた乃木の文字やこの那須の地に20年住みながら農業に励んだ「農事日記」が展示されていた。国の富強の大本は農業にあり、路傍に黄金が満ちるといった詩も素晴らしかった。ロシアの敵将ステッセル将軍らとまみえた有名な水師営会見での打ち解けた写真。明治天皇崩御で自刃した時の「遺言條」(大将元年9月12日夜)では第一から第十までの遺言が書き連ねてあり、宛名は妻の静子だった。この時点では静子は殉死する予定ではなかったようだ。軍神とあがめられた乃木の葬儀には20万人という前代未聞の人々が弔問に訪れたという。神社内には53坪の「乃木希典那須野旧宅」が残っていた。「名将乃木希輔」(桑原巌)という書物を神社で購入する。副題にあは「司馬遼太郎の誤りを正す・附 司馬遼太郎氏を偲ぶ」とある。司馬遼太郎の名作「坂の上の雲」では、乃木希典の軍事的無能を描いてあるが、本書を読めば「司馬氏の著述が如何に事実を誤解し、偏見独断に満ち満ちたものであるかを、容易に了解されるものと確信する」とある。司馬遼太郎が生前、「坂の上の雲」のテレビ化に諾と言わなかったのも記述の誤りによって人を迷惑をかけると感じたからだという。この話は聞いたことがあることを思いだした。


山縣有朋記念館


 山縣農場内にある明治の元勲・山縣有朋の晩年の別荘を訪問。門には山縣エンタプライズ(株)とあり違和感を覚えたが、4代目の矢板市長をつとめた夫の遺志を継いだ睦子(現在81歳)さんがこの記念館の隣に住み、まもっているという経緯だった。長州の萩に生まれた山縣は1838年生まれで84歳で1922年に逝った。51歳以降何度か内閣を組織する。この記念館は神奈川県小田原の別邸古希庵内に建てられた木造洋館。当時の元老、重臣、閣僚。論客が連日この2階の応接間で国事を論じた。展示してある社真には、大正天皇を挟んで左に寺内正毅、右に山縣有朋、隣に乃木希輔が見える。山縣は乃木より11歳年長である。明治10年に西郷隆盛が起こした西南戦争にあたて、「西郷隆盛に與ふ」という陸軍卿・山縣有朋の心のこもった西郷宛の書簡が展示されている。時に西郷51歳、山縣40歳。西郷は岩崎谷の洞中にあってこれを読み、大いに感ずるところあって「我は山縣に負かぬ」と長大息したという。山縣は西郷の首を見て「予は知己を亡った。この英雄をして今日あらしめねばばらなかったことは、予が一生の遺憾である」と言ったという。


那須塩原温泉郷にて「妙雲寺」を訪問。平家の落人であった重盛の妹の妙雲尼の寺。この中に、この地を訪れた文学者の碑が数多く建っている。尾崎紅葉会津八一、漱石「湯つぼから首丈出せば野菊哉」、茂吉「とうとうとらっぱをふけば塩原の深染の山に馬車入りにけり」、昭和天皇「夏たけて堀のはちすの花みつつ ほとけのをしへおもふ朝かな」、芭蕉「初しぐれ 猿もふみのをほしけなり」