土井晩翠--不断の渇きとめがたき 知識の泉くみとらむ(人物記念館の旅)

以前から気になっていた土井晩翠。仙台には晩翠通りという大きな道路があるなど市民には馴染みの深い名前である。日曜日の午後、青葉通りと晩翠通りの交わったあたりにある晩翠草堂を訪ねた。平屋で立派な庭もあり、漱石草枕に「要領を得ぬ花が安閑と咲いている」と書いた木瓜(ぼけ)の実がなっていた。晩翠の自宅は太平洋戦争の空襲で3万冊の蔵書とともに焼けてしまった。この草堂はそれを見かねた晩翠の弟子たちがお金を集めてつくってくれたという曰くつきの家である。


30歳で故郷に帰った晩翠は3年間のヨーロッパ留学期間を除き、仙台で生活をする。第二高等学校で64歳で定年になるまで続けた優れた教師としての仕事と、影響力のある著作の執筆にその生涯を費やし、失意の中で仙台に住みその自然にすっかり癒されて生まれ変わった経験のある島崎藤村とともに晩藤時代を築く。1949年には仙台名誉市民、1950年には詩人として初めての文化勲章を受章している。仙台には晩翠の教え子たちで構成された晩翠会という会がいまだ健在であると聞いて驚いた。1871年に生まれ、1952年に80歳でその生涯を閉じた晩翠の記憶は仙台の人にはまだ鮮明な像を結んでいる。


晩翠草堂に掲げてある写真の中で、もっとも惹かれたのは「晩翠と教え子たち(二高教室にて)」という写真だ。壮年の晩翠を真中に40名ほどの旧制高校生達が笑顔で取り囲んでいる。敬愛された素晴らしい先生であったことをうかがわせる写真である。「教師・土井晩翠(吉岡一男)」というエッセーには「全国から来る学生の面倒を見たり、卒業してからの相談にのるなど学校内外でも尊敬される先生でした。」「人生を教えてくれる名物先生でした」とある。


晩翠には第一詩集「天地有情」、「曙光」「暁鐘」「那破翁」「東海遊子吟」などの優れた作品がある。一番なじみが深いのは「荒城の月」の作詞や「星落秋風五丈原」だろう。築館出身の白鳥省吾の書いた「詩聖」の額が飾ってある。また、「空は東北山高く」で始まる第二高等学校校歌を作詞した晩翠は、求めに応じて県内はもちろん日本各地の200以上の校歌の作詞もしている。


晩翠草堂には二部屋あり、ベッドのある寝室には「酒という文字を見るさえうれしきに のめといふ人 神か仏か(読み人知らず)」という自ら書いた書があった。酒好きだったのだろうと親しみを覚えた。


晩翠を敬愛する案内のおじさんは的確な知識とあふれる熱意で説明してくれて感心した。この草堂は仙台市の持ち物だが、「窓口サービスアンケート」の結果を張り出してあり、5点満点で4.87という高得点だった。熱意ある案内人の人柄と風貌、これも人物記念館の好もしい風景の一つである。


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