2005年の愛知万博からさかのぼること35年、1970年の大阪万博のプロデューサーは岡本太郎だった。「太陽の塔」の奇妙な姿を見るたびに岡本太郎を思い出す。大阪万博はアジアで初の万博だった。
大学時代にあらゆる「選択」に悩んでいた時、岡本太郎の「原色の呪文」という厚い本を読んだ。その中に、私の迷いを解決する言葉があった。
「迷ったら、失敗する可能性が高い方、自分がダメになる方を選べ。そうするとエネルギーが湧いてくる」
この衝撃的な言葉で、いい方を選んでもよくない方を選んでも、どちらでもいいんだと思った。それからは、決断がはやくなった。
就職して広報の仕事をしていた1980年代後半のバブルの真っ最中に岡本太郎本人に会ったことがある。世界の腕のいいシェフを招いてのグルメ料理の会があり、会社の担当として出席した。私が座ったテーブルには、池田満寿夫と佐藤陽子夫妻、そして岡本太郎がいた。岡本太郎はもうかなりの年配だった。酒を飲んでいたが、目はらんらんとしていた。一緒にトイレに向かう途中で、大学時代に本を読んだ話しをしたが、酔っ払っていてよくわかっていないようだった。佐藤陽子が「センセー、センセー」と呼んでいたのが今でも印象に残っている。
青山の骨董通りの近くの一角にある素敵な建物が「芸術は爆発だ!」で知られる岡本太郎記念館だ。自宅とアトリエを兼ねていたが、そのままに公開している。岡本太郎が50年近く生活し、「太陽の塔」をはじめ、モミュメント、彫刻、絵画、膨大な著作などを生み出した創造の基地である。訪問した時は、専属秘書で後に養女となった記念館館長であった「岡本敏子の60年展」をやっていた。岡本敏子は2005年4月に急死した。「私は岡本太郎と共に五十年走ってきた。自分らしくとか、何が生き甲斐とかなんて考えるヒマはなかった。十分に、ギリギリに生きた。極限まで」。天才に魅了されて一緒に突っ走った人の偽りの無い言葉だろう。「岡本敏子と語る広場」という空間には、黒川紀章、筑紫哲也、梅原猛、よしもとばなな、糸井重里、中村桂子、山口昌男、石田えり、、などからのメッセージが飾ってある。
庭に面した部屋には、岡本本人の像を含め様々な造形物がそれぞれ自己主張をしながら並んでいる。奥のアトリエは、画材、刷毛、筆、椅子、ピアノ、そしてゴルフバッグなどがある。
庭には、座ることを拒否したイスというのが17脚あるが、その一つに座って庭を観察する。大きなソテツの木、さまざまなモニュメントなど、とてつもないエネルギーのたまった場所だ。
岡本太郎(1911−1996年)の写真には、目を力いっぱい開いた写真が多い。
万国博のとき「どういうわけか、やるべきかどうか、私に相談してくれた」
中国北京の人民大会堂で「中国もいいところがたくさんあるが、現代絵画はだめだ。こんなものは絵じゃない」といって満堂を白けさせたという話を仄聞している。
「ぼくはピカソなんかよりずっと偉いんだ。岡本太郎の方が偉いんだ。そうでなくて、どうして僕に現在絵が描けるんだ」
金子兜太の「シャーマン的文化人」の中で、「原色の呪文」(文藝春秋社)を取り上げている。
丹下健三の「縄文的なもの」の中で
「伝統とは、過去と未来とを橋かけるという、もっとも創造的な、現代的な課題であるからである」
岡本太郎の素敵な言葉
「他人が笑おうが笑うまいは、自分の歌を歌えばいいんだよ」
「やろうとしないから、やれないんだ。それだけのことだ」
「ぼくはこうしなさいとか、こうすべきだなんて言うつもりはない。
ぼくだったらこうする といううだけだ。
それに共感する人、反発する人、それはご自由だ」