樋口一葉記念館

樋口一葉明治維新の直後の1872年生まれで、同年生まれには、短歌の与謝野晶子、国文学の佐々木信綱らがいる。晶子は太平洋戦争のさなかの1942年、信綱は戦後の東京オリンピックの前年の1963年に没している。一葉は明治時代の中葉である1896年に24歳で、あまりにも若い死を迎えている。


 東京台東区竜泉の一葉記念館を訪ねるが、残念なことに建て替え工事中だった。記念館のある小路には、手焼きの「一葉せんべえ」を売る店や、「一葉泉」と名乗るクリーニング屋があった。そのせんべえ屋は一葉が住む前からここでこの商売をしていたとのことだった。

 平成18年11月に開館予定の記念館が建つまでの間、台東区生涯学習センター3階に仮設の展示施設が設置してあるとのことだったので、そちらを訪問する。このセンターは合羽橋という道具屋街にあった。


 一葉が住んでいた竜泉寺町の大音寺通りの地図が目に入った。荒物や駄菓子を商っていた長屋の自宅の右隣は、酒屋、魚屋、床屋、たび屋、いも屋などがあり、左隣には人力宿屋、建具屋、おけ屋、たばこ屋、質屋などが並んでいる。向かいは下駄屋、たび屋、豆腐屋、傘屋、だがし屋、筆屋、べっこう屋など。この大音寺通りの先にお歯ぐろどぶがあり、その先に遊郭で有名な吉原があった。糊口の文学から脱して生活を支えるために、商いをすることを決心する若い一葉は友人の目に届かないこの場所を選んだ。貧しさのために勉学や優れた才能を充分に生かせない社会に不条理を感じた。


 一葉は利発で小学校高等科第四級を首席で卒業しているが、「女が学問を身につけるのは好ましくない」という母親の強い反対で進学を断念している。「死ぬ斗悲しかりしかど、学校は止になり」と日記に記している。後に一葉は、私の学校は歌塾「萩の舎」と東京図書館でしたと語っている。中島歌子の萩の舎では、上流階級の娘が多く、下級官吏の娘で古着をまとった自分が最高点をとったなどと「一葉日記」にも記されている。歌子の助教を務めるまでになっており、一葉は短い生涯で4千首の和歌を詠んでいる。明治20年の発表記念会の写真では、細おもての一葉の顔を見ることができた。

 父や長男を失った樋口家は、55歳の母、32歳の姉、23歳の次兄を養う戸主に17歳の一葉をたてる。萩の舎で4つ上の姉弟子だった三宅花圃が書いた処女小説で、原稿料が33円20銭だったことを知り刺激を受け、貧しい一葉は小説を書くことに興味を持った。一葉は、家族の生活を支えるために小説を書く決心をし、朝日新聞の小説および雑誌担当記者だった半井桃水に師事する。桃水の指導を受けたが、二人の仲をうわさするものもあり、一葉の方から絶好の手紙を送っている。その手紙の文面も掲示してあった。一葉の大事な恋だったのではないだろうかと不憫に感じた。


 この記念館には友人、恩師などへあてた一葉の手紙が多く展示されている。「私は生まれつき不調法で有り難いことを有り難いように言葉にも出せず、筆を執っても同様でただ心の中で思って居るだけなのでございます」と三宅花圃に書き送っている。それぞれに墨で書かれた手紙と、現代語訳があり、若い一葉の苦しみ、悲しみ、こころの動きがそのまま伝わってくるようだ。


 本名の奈津、一時用いていた夏子、そして小説「闇桜」から一葉というペンネームを使い始める。インドの達磨大師が中国揚子江を一葉の芦の葉に乗って下ったという故事に因んだものだ。浮世の波間に漂う舟という意識を持っていて「達磨さんも私も“おあし(銭)がない”」としゃれていたという。


 金港堂の雑誌「都の花」に「埋もれ木」を執筆し、20歳で文壇に登場する。この原稿料は11円75銭だった。一か月7円の生活を送っていた樋口家には大金だった。雑誌「文学界」に上田敏島崎藤村北村透谷らとともに参加した平田禿木が、一葉の「埋もれ木」に感激し、文学界で活躍するようになった。

 明治27年12月の「大つごもり」、28年1月の「たけくらべ」、4月の「軒もる月」、5月の「ゆく雲」、8月の「うつせみ」、9月の「雨の夜、月の夜」、9月の「にごりえ」、12月の「十三夜」、29年1月の「この子」、1月の「わかれ道」、1月には「たけくらべ」完結、2月の「裏紫」と一気に名作を世に送っている。まさに「奇蹟の十四ヶ月」(和田芳恵)である。


 擬古文による最後の作家といわれる一葉の「たけくらべ」は森鴎外が絶賛したのをはじめ、正岡子規らからも評価され、女流作家として華々しい活躍をする。しかし、一葉は文名があがることへの恐れと戸惑いも感じていたらしい。一葉は、「たけくらべ」完結から1年も経たない明治29年11月23日、肺結核で24歳で帰らぬ人となった。天寿を全うしていたら、どのような作品を書いたのだろうと想像する。

 訪問記念に買った完全現代語訳「樋口一葉日記」を読みながら、恋と文学と借金で彩られた薄幸の天才作家・樋口一葉の心を深く旅をしたいと思った。


追加:

「一葉日記」が面白い。


・ たとえつまらない小説ではあっても、私が筆をとるのは真心からのことです。

・ 一番大切なことは親兄弟の為にすることです。

・ この世を生きていくために、そろばんを持ち汗を流して商売というものを始めようと思う。

・ すっかり怠けてしまったこの日記よ。

・ このような時代に生まれた者として、何もしないで一生を終えてよいのでしょうか。何をなすべきかを考え、その道をひたすら進んで行くだけです。

・ 青竹を二つ割りにするように、あっさりとした気持ちで言ってみるだけのことだ。

・ 務めとは行いであり、行いは徳です。徳が積もって人に感動を与え、この感動が一生を貫き、さらには百代にわたり、風雨霜雪も打ち砕くことも出来ず、その一語一語が世のため人のためになるものです。

・ もし大事をなすに足るとお思いになりましたら経済的な援助をお与え下さい。

・ あの源氏物語は立派な作品ですが、私と同じ女性です。、、、。あの作品の後に、それに匹敵する作品が出てこないのは、書こうと思う人が出てこないからです。、、、今の時代には今の時代のことを書き写す力のある人が出て、今の時代のことを後世に書き伝えるべきであるのに、、、、

・ 世の中というものは本当にわからない所ですから、ただ見た目や噂だけでは信用できません。

・ 才能は生まれつき備わっているもので、徳は努力して養うものです。

紫式部は天地のいとし子で、清少納言霜降る野辺の捨て子の身の上であると言えるでしょう。

・ 世の中はいつも変わるものなのに、変わらないのは私の貧乏と彼の裕福だけ。

・ ようやく世間に名を知られ来て、珍しげにうるさい程もてはやされる。嬉しいことだといってよかろうか。これもただ目の前の煙のようなもので、私自身は昨日の私と何の違いがあろう。

・ 私の小さな舟は流れに乗ってしまったのです。波の底の隠れ岩に舟が当たって壊れない限り、もう引き戻すことは出来ない。


極みなき大海原に出にけりやらばや小舟波のままに

・ 毎日私を訪ねてくる人は、花や蝶のように美しい人々ばかり。、、、人々が寝静まった夜更けに静かに思えば、私は昔のままの私であり、家も昔のままなのに、、、

・ 私を訪ねて来る人は十人中九人までは、私が女性であるということを喜んで、もの珍しさで集まって来るのです。

・ ともかく、これは一時の虚名を利用して、本屋はもうけ、作者も収入を得るためだけのことです。

・ しかし、どうして今さら世間の評判など。


「一葉日記」は一葉の代表作である。