渡辺崋山(田原市博物館)

愛知県田原市青年会議所での講演の前に、蛮社の獄で知られる渡辺崋山の記念館を訪ねた。田原城址に立つこの記念館は竹下総理時代のふるさと創世資金を使って建てられたものだ。


12歳のときに備前池田候の行列から辱められた崋山少年は殿様と対等に話せる人物になろうと学問の世界で身を立てることを決意する。崋山は藩士として有能で後に家老職にのぼる。暮らしを支えた内職の絵の才能も素晴らしく、画家としても大成する。絵は谷文晁に学んだ。そして蛮社の獄の原因となった「慎機論」の著述で知られるように当代きっての蘭学者でもあった。藩士・画家・学者という3つの顔を持つ崋山は、刻苦勉励型の努力家だった。「日省課目」という一日のスケジュール表をつくっている。それによれば、朝は午前4時に起き、前日の復習、学問、6時には子どもへの教授、8時には講義、10時には絵を描く。正午は登城し藩士としての仕事、2時からも同じ、4時には模写。午後6時からは詩、文章など。2時間を単位として生活のスケジュールをつくっている。睡眠時間は3時間というスケジュールだった。いつの時代もマルチに人生を生きようとすると時間の捻出と効率的な仕事のやり方が大切ということだろうと、崋山の人柄に共感を覚える。崋山はスケッチやメモをとるという方法を用いていた。崋山の優れた観察眼の秘密はこのスケッチやメモにある。


「商人八訓」には、「先ず朝は召使より早く起きよ」「十両の客より百文の客を大切にせよ」「買い手が気に入らず返しに来たらば売る時より丁寧にせよ」「繁昌するに従って益々倹約をせよ」など、商売のコツをしっている観察に優れた崋山の姿が浮かぶ。大坂商人との外交にあたっての「八忽の訓」も面白い。「眼前の躁廻しに百年の計を忘るる勿れ」「前面の功を期して後面の費を忘する勿れ」


40歳で家老になった崋山は、農業や海苔の生産などに励む。報民倉という米の備蓄のための倉庫をつくり、その米を後の天保の大飢饉の時に放出し、餓死者がなく幕府から表彰もされている。紀州藩破船流木掠取事件、幕命の新田干拓計画助郷免除なども解決している。崋山の蘭学を通じて外国事情に明るかった田原藩は軍備の近代化にも成功していた。絵画には遠見番所という灯台も設置した。


崋山は難破した漁民を届けようとしたモリソン号を幕府が打ち払った事件を「慎機論」で批判したという罪で、「戊じゅつ夢物語」を書いた友人の高野長英(1804年生まれだから崋山より11歳年少)らとともに捕らえられる。この蛮社の獄は、無人島渡航計画のうわさから出たもので10数名が捕らえられた。長英は永牢、崋山は蟄居を申しつけられる。「慎機論」では五大州のうちアメリカ・アフリカ・オーストラリアはヨーロッパの植民地となり、アジアでも独立国はペルシャ・中国・日本のみであり、その中でも西洋人と貿易などをしていないのは日本のみであると書いている。


働き者の崋山は、蟄居の間も農業とともに絵にも力を入れる。千山万水図、月下鳴機図、虫魚帳などの名作もこの間に描いたものだ。ところがこれが「罪人身を慎まず」と悪評になり、死を決意する。「自決脇差」がちょうど展示してあった。墓には「不忠不孝 渡辺登」と書く。君主への不忠、親に先立つ不孝をしたとの意である。崋山は登(のぼり)という名をもたっていた。


画家としての崋山は、線を主体とした東洋画に、立体・質感・遠近などの西洋画の手法を取り入れている。一掃百態図などは庶民の生活を描いた動きのある名画である。両国橋図稿など動きのある風俗描写も素晴らしい。また、人物画に優れ多く描いている。写生の中に、人物の性格も表現した。崋山と椿山(弟子)の人物画の企画展も開催されていた。鷹見泉石、佐藤一斎、林大学頭述斎、崋山像(椿山画)、ナポレオンなど多くの優れた人物画をみる。崋山の先生でもある佐藤一斎の絵を興味深く見た。崋山は19歳の時に学んでいる「年を重ね穏やかになった一斎」と解説がある。一斎夫妻像は夫80歳、妻73歳のときの全身像である。刀、扇子、脇差、烏帽子なども細かく描かれてある。一斎は有名な儒学者で、名言が多く、西郷隆盛なども一斎に大きな影響を受けている・「少にして学べば壮にして為すことあり 壮にして学べば老いて衰えず 老いて学べばすなわち死して朽ちず」という私が一番好きな言葉は、この一斎の言葉だ。一斎は1772年生まれで88歳の長寿を全うしている。美濃岩村藩の出身で34歳の時に幕府の昌平坂学問所塾長になっている大儒である。


田原藩の上屋敷は、皇居に面した今の最高裁判所の辺りにあった。そこで崋山は江戸家老として過ごしている。


蟄居していた家が崋山を記念した公園の中にある。崋山の像が立っていた。


崋山が自刃して1年後には打ち払い令を緩め、10年後にはいくつかの国と国交を持ち、そして27年後に明治維新となるから、時代を先駆けた人物だったということだろう。