原敬記念館

「平民宰相」として知られる原敬記念館を11月3日に岩手県盛岡市に訪ねた。

翌日の4日が、首相在任中に東京駅丸の内南口で18歳の青年によって

暗殺された命日である。原敬は1921年(大正10年)に65歳で世を去る。

今年は1856年生まれの原の生誕百五十周年にあたるため、記念館では

原敬、故郷を想う---老死なば滋に朽ちなん花のもと」という企画展覧を

開催していた。暗殺の噂があったこともあり、原は遺書をしたためていた。

死をも覚悟して事にあたっていたのだ。


「死去の際位階勲等の付与は余の絶対に好まざる所なれば死去せば即刻発表

すべし」

「墓石の表面には余の姓名の外戒名は勿論位階勲等も記すに及ばず」

など原の政治を行う決意をうかがい知れる言葉が並んでいる。

原敬の墓は「原敬墓」である。再婚した妻の墓も隣に「原浅墓」とある。

家族に対しては「家計は現在の財産より生ずる利益利息等の収入により質素に之を営むべし」と諭している。

父が早く亡くなったため母リツの女手で育てられた。「どうかみんな世間から笑われないような人間になっておくれ」という母の口ぐせだった。


歴代総理の出身地の地図が貼り出されてあった。それによると44歳で就任した最年少の伊藤博文から77歳の最高齢の鈴木貫太郎までの歴代総理の出身は、西日本70%、東日本30%だ。県別にみると、7人の山口県が飛びぬけて多く、4人の岩手県と東京都が続く。東北と北海道で総理が出ているのはこの岩手県だけであとは0(ゼロ)が並んでいる。原敬、斉藤実、米内光政鈴木善幸東条英機は確か盛岡中学校出身のはずだがと考えていると、「東条英機は東京生まれ」との注釈がついていた。岩手県には新渡戸稲造後藤新平宮沢賢治石川啄木など偉人・賢人が多い。

1900年11月25日の日本経済新聞の「日本の政治家10傑」が掲示されていた。識者へのアンケート結果。

それによると、10位:田中角栄、9位:三木武夫、8位:石橋湛山

7位:山縣有朋、6位:浜口雄幸、5位:池田勇人、4位:西園寺公望

3位:伊藤博文、2位:吉田茂

そして1位が原敬である。

また、平成12年4月の「現代」で行った「20世紀最高の内閣」という企画も

興味深かった。

外務大臣幣原喜重郎、大蔵:池田勇人、文部:石橋湛山、通産:岸信介

運輸:後藤新平、郵政:田中角栄、労働:石田博英、建設:福田赳夫

内閣官房後藤田正晴総務庁佐藤栄作防衛庁中曽根康弘

環境庁大石武一国土庁松下幸之助、金融再生:高橋是清

そして総理大臣は原敬だった。

要するに原敬は近代最高の総理大臣だったといいうことだ。このような

評価をみると改めて、この人物に対する関心が高まる。


8冊の著書を書いているのも歴代首相のなかで最多である。

23歳のときの露西亜国勢論(翻訳)、33歳の埃及(エジプト)混合裁判、

36歳の現行条約論、38歳の陸戦公法、42歳の新条約実施準備、43歳の

でたらめ、43歳の外交官領事制度、63歳の米麦混合食の奨励。

「でたらめ」という一風変わった著書がある。これは大阪毎日新聞

社長時代にでたらめ記者という筆名で、食事の作法、もてなし、酒の飲み方

などエチケットを論じて好評を博した記事をまとめたものだ。

目次を並べてみる。「訪問の事・時刻の区別・宴会の事・夜会と酒宴・

無益の謙遜・衣服の事・養殖の食方・帰りの土産・帽子の事・靴とシャツ・

葬式の弊風・名刺の折方・内外人の交際・男女交際の事・御役人風・

席順の困難・贈物の幣・公演の事・道路修理・宴会の時刻・宴会の作法」など。

外交官であった原は「一から十まで欧米の真似するにも及ばずという

云う人もあらんが、去りとて頑固に習慣を維持せんとの論には何人も

同意せざるべし」と緒言に書いている。

復刻版を買って少し読んでみたが、原の日常の生活態度が見えて面白い。


しかし、何といっても19才から65歳までの日記83冊の「原敬日記」の存在が凄い。

遺書には「余の日記は、数十年後はとにかくなれども、当分世間に出すべからず、余の遺物中この日記は最も大切なるものとして永く保存すべし」とあった。このため本箱ごと盛岡に送られ、保存されていたため、関東大震災にも東京大空襲にもあわずに後世に遺すことができた。この日記は没後30年たった1950年に公開されて、出版された。

原はどうやってこの日記を書き続けてきたのだろうか。

毎日、簡単なメモを取っていてそれを材料に一週間に一回詳細にきちんとまとめた。

パソコンやブログのような便利なツールがない時代に、激務の中で継続して

書き続けた意志力には驚きを禁じえない。

「任すずんば、任するの気力起こらず」「地方分権なくして地方の衰頽免れない。議会と行政官に権限を与えよ」「日本人はとにかく一局処に眼光をうばわるるの幣あり」「最も便利を得しは、酢を携帯せしことなり(天津紀行)」。


原敬は、62歳から65歳までの3年2ヶ月の間、第19代総理(10人目)を務めた。爵位を持たない衆議院議員が首相になったのは初めてで、世間は平民宰相といって歓迎した。原内閣は、藩閥、官僚、貴族院の勢力を排して完全な

政友会内閣を組織した。藩閥の弱体化、文官任用による軍閥の弱体化、政党政治の確立、高等教育機関の大増設(国立高等学校の倍増、大学の学部増設、昇格、早慶明法立中日などの私立大学の認可)、狭軌地方線の拡大、臨時国語調査会の設置、選挙資格の拡大(直接税納入額10円を3円に。小選挙区制の導入で有権者は142万人から306万人へ)、文官登用にあたり自由任用範囲の拡大、アメリカ重視、シベリア撤兵、中国との関係改善、国際連盟常任理事国、皇太子の外遊(右翼の反感から暗殺)と業績は素晴らしい。


政治家として、そして個人として、原敬はまことに立派な人物だったと

感銘を受けて、記念館を後にした。