寺山修司記念館

異才・鬼才・異星人・聖人と様々に表現されるように、際立った個性の持ち主だったことを思わせる寺山修司(1935−1983年)の記念館(1997年開館)は、青森県三沢の公園の一角に外壁いっぱいに名のある崇拝者たちの書き付けを張り巡らせながら、強い自己主張をしながらたっていた。青春時代から「書を捨てよ町へ出よう」という強烈なメッセージを発した寺山修司という名前は私の周りを巡ってはいたが、どのような仕事をしたのかはよく知らずに今日まで過ごしてきた。

一昨年から始まった私の「人物記念館の旅」も寺山修司で100館になった。

記念館の入り口は天井桟敷のシールと同じように赤の色調に黒を使った顔がモチーフとなっており、私たちはそれを開いて寺山ワールドに入っていく。


3万人の死者を出した昭和20年の青森大空襲で焼け出された寺山は9歳から13歳まを三沢で母と過ごす。寺山は弘前生まれで高校は青森だが、記念館はそういう町にできずに三沢にできた。目立ちたがり屋で負けず嫌いで都会人だった寺山はこの街では異邦人であったようで、同級生たちのいじめにあう。そのときの体験が後の「田園に死す」という映画の中で、主人公の映像作家のかくれんぼのシーンになって表現されている。同級生の証言によると学校で本を朗読する時には会話調で読んだりしており、驚かせている。三沢には母子ともいい想い出はない。同級生たちは寺山の死後、1989年に罪滅ぼしの意識で文学碑をこの地に建てた。それが記念館につながっていった。


青森の立野脇中学校時代の2年生の通知表をみると、「書くことによって表現する能力・話すことによって表現する能力(国語)、批判的な思考をなし得る能力(社会)、理解し問題解決に応用する能力・実際場面に技能を使用する能力(数学)、創造的な表現(図画工作)・理解しながら読む能力・話す技能(外国語)」などが高い評点をもらっている。後の優れた表現者寺山修司を予感させる内容である。

青森高校で文学部、俳句部に属した寺山は俳句や短歌の世界で頭角を現していく。「青森高校・寺山修司」の名前は有名だった。18歳で「短歌研究」新人賞特選を獲得し、「十代の天才歌人」「昭和の啄木」と激賞された寺山は、歌集、俳句集、詩集を次々と発表し地歩を固めていく。


展示室の年譜を追っていくと、表現者としての仕事のおびただしい量と広がりに圧倒される。「短歌で革命はできんよ。おれは演劇で日本を震撼させてやるんだ」とうそぶいた寺山は、詩人・歌人・劇作家・小説家・写真家・映画監督・戯曲作家とあらゆる表現の領域に簡単に入り込み、たちまち一流の仕事をする。「シャシンはシノヤマではなくてアラキだ」との殺し文句で荒木経よしから写真を習い、その一週間後には写真展を開いている。またストーリーのあるものを書きたいと「ラジオドラマでも書いてみよう」と思い「中村一郎」という台本を書き、ラジオ九州で放送され民放祭大賞を受賞するという具合にあらゆるジャンルを軽々と超えていく。

30歳を過ぎたあたりからの出版物の量も凄まじい。毎年10冊ほどの本を世の中に出し続けている。


28歳 放送詩劇「山姥」(NHK)がイタリア賞グランプリ受賞

   放送詩劇「大礼服」(CBC)が芸術祭奨励賞受賞

33歳 作詞したカルメン・マキの「時には母のない子のように」が大ヒット

36歳 ミュンヘン・オリンピック芸術祭で野外劇「走れメロス」を上演

38歳 脚本・監督した映画「田園に死す」が芸術祭新人賞

41歳 フランスの写真雑誌「ZOOM」の日本特集号を単独編集

44歳 「シティロード」読者選出の演劇部門の「作家・演出家」分野で2年連続第一位


日吉ミミの歌う「ひとの一生かくれんぼ」、チェリッシュの「昭和わらべ唄」の作詞も寺山である。


記念館の外の小川原湖が見える松林を散策すると寺山修司文学顕彰文学碑にでる。石碑の前には愛犬が座っている。文学碑は本が開いた形をしており、ここに3首の短歌が彫られている。後ろにまわると、背表紙のタイトルは「田園に死す」だった。この場所からは魚釣りの小船が浮かぶ小川原湖の眺めがいい。平成元年5月4日(1989年)の建立で、ブロンズの製作者は粟津潔、協力者には三浦雅士谷川俊太郎らの名前がみえる。

 

 君のため一の声とわらならん失いし日を

 歌わんために


 一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわ

 れの処女地と呼びき


 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つ

 るほどの祖国はありや


記念館の外壁は149枚の陶板が貼り込まれ、寺山と交流のあった30人の書き付けで埋まっている。面白い趣向である。


 雪暮れて 昭和見送る 黒マント(浅井慎平

 この夏の心を予約するように 贈るられている麦わら帽子(俵万智


この記念館は寺山が好んで使った時計をモチーフにしており、ホワイエ棟から渡り廊下をでつながった展示棟は文字盤を意味しているのだそうだ、柱時計の下の部分には小さな空間が外に向かって出ており、その向こうに観客席を模した階段がある。野外劇が出来るようにしてあるのだ。


「百年たったら帰っておいで

 百年たてばその意味わかる」(北上市の文学碑)


秩序紊乱者であった寺山修司の仕事は先端的で、膨大で、影響力が強く、今なおそのファンは多い。1983年に47歳で寺山は病気のため世を去るが、上の謎のような言葉を残している。いったい寺山修司とは何者であろうか。寺山が亡くなってからまだ20年を少し超えたところにいる私たちには、まだ寺山修司の発したメッセージの本当に意味はまだ理解できないのかもしれない。