高村光太郎記念館・高村山荘(花巻市)

高村山荘


花巻市の郊外に建つ高村山荘は、彫刻家高村光太郎が晩年の7年間(1945-1952年)に独居した山荘跡である。光太郎は1883年生まれだから60歳代の中盤はこの地で過ごした。光太郎は1956年に亡くなるが、最後の仕事として十和田湖畔の乙女の像制作の前にここで暮らした。山荘といえば聞こえはいいが、実際はは7.5坪(22.5へーべ)の粗末な小屋である。小屋の三分の一は土間で、6方ほどの板の間とその北川に囲炉裏があり、奥に3畳ほどの畳が敷いてあるだけである。この寒く不便な土地で独居自炊の原始生活はいかにも厳しい日々だったろうと推察する。宮沢賢治の父・政次郎との縁があり、この地に疎開した。

毎年、5月15日にはいまだに「高村祭」が催されている。


この小屋は現在では二重の套屋で囲われている。最初は、1957年秋に、光太郎のいなくなった小屋が傷んできたのを見かねて村人たちが覆いを被せたものである。村人たちの敬愛と愛情によって建てられた套屋は村人が1本1本持ち寄った木材で出来ている。さらに1近隣にできた高村記念館が1977年いその外側に覆いをつくった。入り口には、友人の草野心平の「無得殿」という書が掲げてあった。般若心経からとった字句である。また、光太郎の自画像もあり、そこに本人の書き付けがあった。

「十三文半

 甲高

 馬の糞をふんづけたのでのっぽとなる

 神経過敏のような、遅鈍のやうな

 年寄りのやうな、若いやうな、在るやうな

 無いやうな顔」


近くにある記念館への道を歩いていると、詩碑があった。「雪白く積めり」という詩である。原稿用紙をそのまま4倍に拡大して碑にするというしゃれた工夫である。作曲家中山晋平の碑にも音符をつかったものがあったことを思い出した。詩人には原稿用紙が似合う。この詩は、1945年12月23日とあるから、山小屋最初の冬の作品である。