武者小路実篤記念館

武者小路実篤という名前は、白樺派という美しい名前とともに私たちの世代にとっては、あこがれの対象だった。1885年(明治18年)生まれだが、1975年(昭和50年)に90歳で没するまで「私の美術遍歴」を最後に著書を刊行し続けているから、私が高校生から大学生の間に、同時代にこの人の本を読んでいたということになる。23歳の処女出版「荒野」から数えて67年間、作品は6000というから、長寿で仕事を続けているということは凄いことだと改めて感じた。


武者小路実篤記念館は、京王線仙川から歩いて10分のところにあった。武者小路実篤が住んだ1500坪の土地は、現在では、実篤公園として整備されていて、その一角に住んでいた家があり、さらに平成6年に生誕百周年を記念して建った記念館がある。起伏があり、植物や花が咲いており、池もあり、この自然豊かな公園は昔の武蔵野を偲ばせる。改装中で家の中までは見れなかったが、実篤が愛した池のある庭の側から中をうかがうことができる。晩年になったら「泉と水」のあるところに住みたいと念願していた夢を実現させた家である。越してきたのが70歳だから、家族や友人に囲まれ仕事を続けた幸せな期間をこの地で過ごしたのである。野桜の大木が目についたが、木々の紅葉もきれいだった。ベランダから低い地にある庭と池を楽しむ姿が見えるようだ。


庭の池の鯉を見ながら進んで小さなトンネルをくぐると記念館が姿を現した。

ちょうど展示替えのためメインの展示室はみれなかたっが、裏の小展示室に案内してもらった。ここにはビデオのコーナーがあり、何本もの紹介ビデオがあり、それを4本ほど見ながら疲れを癒した。

「白樺」は、学習院中等科での実篤(当時17歳)と志賀直哉(当時19歳)の出会いとそこから生れた十四日会、そして明治43年に創刊された白樺を紹介している。こういう雑誌は長く続かないことが多いのだが、大正12年の関東大震災まで実に160号を数えるから、その影響は大きかった。

「新しき村」は、?7年に宮崎県につくった理想郷で自給自足をしながら演劇などを楽しむ地である。実篤自身は数年でこの地を離れるが、その後も埼玉県にも同様の村をつくっている。そしてこれらの村は今も人が住みその運動は続いているという。「仲よき事は美しき哉」と好んで書画に書いた実篤は妻の安子が亡くなったわずか2ヵ月後に永眠する。

「仙川の家」は、この最後に住んだ家をテーマとしたビデオである。早起きで、朝は毎日原稿を4-5枚書いて、午後は絵筆をとって書画をかく、そして来客に会う、という生活を送った。普段は2人きりだったが、子や孫を含めると15人いて、よく家族がここに集まったらしい。三女の辰子はビデオの中で「したいことをしている生活でした」と回想している。

「終の住処」というビデオでは、1500坪の土地と建物を詳しく紹介している。ピカソから贈られたミノトール、庭の桜と紅葉、サンルーム、月見台、、。

「秘蔵映像」では、新しき村の様子、初めての洋行時の見送りの様子などを見ることができた。


武者小路実篤といえば、あの独特の温かみを案じさせる書画を思い浮かべる。

「自然 玄妙 81歳」「人生の旅人に幸あれ 87歳」と晩年には年齢を入れている。

「天に星 地に花 人に愛」「人生は楽ではない そこが面白いとしておく」という書画もあった。


「満八十になって」という随筆がある。「あと10年生きられれば、僕は僕風の美術館をたてたい希望は失っていない」「入って出るまでに僕の生きた本に接することが出来るような特別な小美術館」と書いているが。この記念館はそれが実現したものだろうか。


記念館で買った図録をみると、志賀直哉と写った写真が多い。明治39年に行った志賀直哉との徒歩旅行の写真など2人は体格もよく男前である。白樺の新年会、創刊十周年記念、晩年の写真など、常に志賀直哉とともにいる。2人は生涯の親友だったと感じる。

また、白樺関係の記念写真には日本民藝館柳宗悦が感性の鋭そうな目をして写っているのも目を引いた。高村光太郎岸田劉生、木下利玄、バーナード・リーチらの姿もみえる。


実篤は小説、戯曲、詩、評論、随筆、雑感など6000近い作品を発表したのだが、「武者小路実篤 この人は小説を書いたが小説家と言ふ言葉で縛られない哲学者思想家乃至宗教家と云ってもそぐはない そんな言葉に縛られないところをこの人は歩いた」という中川一政が書いた「この人」という詩がよくこの人の歩みをあらわしていると思う。


記念館で買った「人生論」を本当に久しぶりに読み直したい。

作品解説は亀井勝一郎だった。この名前も懐かしい。