小野道風記念館(春日井市道風記念館)

書聖・小野道風の誕生地である愛知県春日井市は、「書のまち」としての発展を期すことになり、昭和56年11月に全国的にも珍しい書の専門美術館を建設する。正式の名称は春日井市道風記念館と名付けた。鉄筋コンクリート造り2階建てで建物面積は延870.53ヘーベの立派な記念館である。

敷地の中には、小野道風の像やいくつかの碑が建っている。

一つは昭和39年建立の小野道風公生誕之碑で、「○徳」(こうとく)という素晴らしく上手な字だった。題額は文部大臣愛知き一だった。

また昭和49年建立の「倦不教」という碑の題額は本首相若槻克堂公の字だった。


建物の前に小野道風の像も建っている。


小野道風のことは戦前の国定教科書の載っていたから年配者は皆知っているエピソードがある。柳に飛びつこうとする蛙を傘をさしながらじっと見つめる道風は、蛙が飛ぶ高さがだんだんあがってついにとらえる。それをみて道風は「何事も努力すれば成しとげることができる」という教訓を学んだというストーリーだ。

三浦梅園(1723−1789年)は、「学に志す者の訓」の中でこのことを材料に「芸のつとむるにある事を知る。学びてやまず。その名今に高くなりぬ」と書き残している。


小野道風(894−966年)は、平安時代中期を代表する書家である。道風以前の日本の書は

いわば先進国中国の模倣であった。そこから脱して日本の風土や日本人の完成にあった書を創始したのが小野道風だった。

平安中期はそれまでの数世紀のあいだ中国文化を摂取し模倣してきたことに飽き足らなくなり、日本独自の文化を築こうという気運に満ちた時代だった。漢詩に対して和歌、唐絵に対して線描を手法とする大和絵、漢字をもとに発明した仮名などが示すように、あらゆる分野に国風文化が花開こうとする時期だった。

道風の書は、このような気運の中で、書についても唐様ではなくて、日本人の感性に合った穏やかで優美な書風を「和様の書」を開発した。


では「書」とはいったい何であるか。文字を「線」の表現として追求していったのが書であり、「文字を扱った線の芸術」が書であるとかすがい市市民文化財団の肥田木朋子学芸員が述べている。

書が芸術であるか否か、という論争はずっとあったらしい。西周は「漢土にては書道」も「美術」に加えられると述べており、岡倉天心は書には装飾性・趣味性・思想表出性もあるおで、十分「美術」たりうると論陣をはっている。


おおまかに整理すると、平安初期の空海(774-835年)、橘逸勢(782-842年)、嵯峨天皇(786-842年)の三筆といわれる人たちの書は「唐様」であり、平安中期の小野道風(野跡)、藤原佐理(佐跡 944-998年)、藤原行成(権跡 972-1027年)の三跡と呼ばれる人たちの書が「和様」である。

創始者である道風は、中国の書聖・王義之の書を穏やかな日本風にしたものともいえる。藤原行成は、和様の書の大成者である。


小野道風の書と確実にわかるのは五点しかない。しかし1000年以上たってまだ書いたものが残っているのは奇跡に近いというべきかもしれない。

能書の人を数人あげて名前をつけるという趣向があるが、ニ聖、三賢人、三跡、三宗、四墨という言葉があるが、そのほとんどに名前を連ねているのは、道風である。


道風が書いたとされrている「春敲門」という熱田神宮の扁額文字が展示されている。これは「春は東方より来りて門を敲く」からきているのだそうだ。


源氏物語において紀貫之小野道風の書を比べる場面があり、道風の書が「今めかしょう、をかしげに、目も輝くまでみゆ」と新感覚の優美な書風として影響を与えたと紫式部が描写している。


青森県大山康晴記記念館のある町は、「将棋のまち」として売り出し中であったが、春日井市の「書のまち」というのも目のつけどころがいい。ユニークな美術館である。