河井寛次郎記念館

京都五条通りの若宮八幡宮を少し南に入ったところに今まで何度か耳にした河井寛次郎の記念館がある。柳宗悦日本民藝館でも河井の焼き物を見たし、書物でもよく名前を見ている。こここは長く住んだ自宅を民家を記念館として開放したものである。老夫婦、中年女性の仲間、若者の集団、そして外国人といった多くの人が訪れていて河井の人気の高さがうかがわれた。


年表によれば河井寛次郎は1890年に島根県易安来町で生まれ、中学2年生のときに陶器の道に進む決心をして東京高等工業窯業科を卒業。36歳のときに生涯の友人となった柳宗悦らと日本民藝美術館設立を発願し46歳の時に日本民藝館がオープン。47歳では民家を範とした自宅をつくる。この年、パリ万国博で「鉄辰砂草花丸文庫」でグランプリ受賞、67歳で「白地草花絵篇壺」でミラノ・トリエンナーレ国際工芸展でグランプリ受賞。1966年に76歳で死去している。この記念館は1973年に開館している。黒光りする柱や梁、囲炉裏など重厚な家具など民藝運動を継いだ白洲正子の自宅である武相荘や私の九州の古い実家の昔の姿と同じ匂いがする。


床が観光客の重さでぎしぎしと軋む音やわずかな揺れ、木でできた机や臼の一部を切り取った面白い形の椅子、大きな木のテーブル、木の床、障子、箪笥などが何か懐かしい。一階の椅子に座っていると突然目の前にある柱に取り付けた振り子時計がボン、ボンと鳴り出したのも可笑しみがある。通り過ぎようとした若者がおどろうて笑っていた。何でも柳宗悦からも贈り物で160年以上の命を持つ時計らしい。

一階のリビングというか主たる間は吹き抜けになっており、2階からは滑車がぶら下がっていいる。ものの搬入に使ったのだろうか。新築の折、浜田庄司から贈られた手すりのない独特の箱階段をのぼって2階に出る。大きな丸テーブルがあったが、これは臼をひっくり返したものだそうで、手触り感がよくなかなか風情がある。また丸くくり抜かれた大きなくぼみが二つある朝鮮の炊事道用具も目についた。木の椅子の背もたれは鳥居のような形をしている。


一階の置くの廊下をわたると小さな2畳の離れがある。河井が気分を変える時に使った部屋である。その横を通り過ぎるて小さな窯を過ぎると、焼き物を並べてある部屋に出る。その部屋の奥の扉をあけて外にスリッパで出ると、大きな登り窯が出現する。この民家の一番奥にこのように大きな窯があるのに驚いたが、これが京都の町家の奥の深さだろう。焼き物を焼く窯が段々登るように5つか6つ並んでいる。この窯は共同窯だった。この五条付近は清水焼きの場所である。そういえば記念館の付近に田村菜山という名前の美術割烹陶器の店があった。前から2番目が河井のがよく使った窯である。中に入ってみた。この空間が河井の勝負の場所だったのか、と思いながらわずかな時間を過ごす。窯の入り口には薪が積んであった。


河井寛次郎に中国陶磁器を範とした初期作品の時代、「用の美」の中期作品の時代、「造形」を主眼とした後期作品の時代と3つの時代がある。縄文風の力強い作風の中期の作品は、この家の至るところに配置されて訪問客の目を楽しませてくれる。湯碗、大鉢、壺、陶板、、、。

木彫家、建築家、デザイナー、そして文筆家、詩人としても知られている。

中期の民藝運動の時期は、中国に向いていた目が日本に向いた時期であった。日本人であること、日本の日々の暮らしなどを見つめた時期である。



この世は自分をさがしに来た処−-居たか、居たか

この世は自分を見に来た処


手考足思


つまらぬこと、どうでもよいことに心を患わせている時間はないんだ。立派な陶工になる前に、まず立派な人間にならなくちゃいけないんだ。


この世 このまま大調和


新しい自分が見たいのだ--仕事する。


いつまでも長生きして、いい仕事がしたい---これだけです。



河井寛次郎の宇宙」(講談社)という小さな本を買った。その本の冒頭に梅棹忠夫先生の「河井寛次郎の汎神論的世界」というエッセイが載っていた。寛次郎の娘と結婚して河井家の養子となった河井博次は梅棹の中学校同級の親友だったが、この家をよく訪れた。寛次郎は心から来訪を歓迎し若き日の梅棹と深い議論をして喜んだ。梅棹より30年の年長の寛次郎は、晩年は木彫り作家としての活躍をみせる。奇怪な仮面を次から次へとつくりだして人々を驚かせた。それは不思議に霊的存在を感じさせた。梅棹忠夫はそれを「アニミズム的神像作家」の称号をたてまつったとのことである。