阿部記念館が阿部次郎記念館ではない理由

「三太郎の日記」で旧制高校生を魅了して人格主義を唱えた東北帝国大学教授・阿部次郎の記念館は仙台にあり、訪問したことがある。山形県の松山にある記念館は、次郎の文字が入っていない阿部記念館だった。記念館の近くの小学校には阿部襄という名前の石碑が建っていたので不思議に思ったが、切妻造りの平屋の実家をみて納得がいった。


玄関を入ってすぐの和室には、4人の写真が掲げてあった。

阿部次郎(1883−1959年)の隣は、小学校の石碑でみた阿部襄(のぼる・1907−1980年)だった。襄は次郎の兄の一郎の子どもで、生物学者・生態学者で山形大学農学部の教授をつとめた。一方で文学者・詩人としても活躍し、山形出身の俳人を記念した斉藤茂吉文化賞や、地元への貢献が大である人に贈られる高山樗牛賞ももらっている。


当主であり次郎の祖父に当たる七郎右衛門と祖母にあたるわかのの写真がある。このわかのが立派な人格者で、阿部家の精神的なバックボーンとなった。偉いおばあさんだっとの説明があった。


阿部次郎は八人兄弟の次男であるが、兄弟の写真と事績を展示した部屋に入って驚いた。

次郎は東京帝大を出て東北帝大教授、三也は陸軍大学出身の軍人、余四男は東京帝大を出た動物学者で広島文理科大学教授、勝也は東京帝大を出た歴史学者で九州帝大・北海道帝大・東北帝大教授、六郎は京都帝大出身の文芸評論家で東京芸大教授、という具合に秀才一家だった。

次郎だけが特別なのではなく、阿部家そのものがこの地域の誇りだったのである。阿部記念館と名付けたのもわかった。



阿部次郎選集4巻に阿部次郎が甥の襄のために書いたサインがあった。次郎は襄を可愛がっていた。


ベストセラー「三太郎の日記」が初版からずっと並んでいた。見覚えがある本をみると「三太郎の日記 補遺」(角川書店)とあり、昭和45年(1970年)5月発行とあった。私が大学時代に手にしたのはこの本だった。懐かしい。


阿部次郎が中学3年生(明治31年7月19日)のときに「14歳の誓い」を書いている。

 

 我道徳的品格の理想

   慈愛

     誠実

   沈静

     精進の気象

   宇宙を呑むの自信

     慎重


この頃からすでに人格主義が芽生えていたことを示している。

「品格」という言葉も用いていた。


次郎は毎年正月に遺言を書いている。新しい遺言を書いたら前の遺言は破棄しているのだが、珍しく昭和16年元日版の遺言状が展示してあった。参考にしたい習慣である。


岩波書店岩波茂雄(1881−1946年)は一高時代からの同級生で、寮が同室だったこともあり、生涯の親友だった。友人が金に困っているのをみかねて岩波の金を借りてやろうかなどと書いた手紙も残っていた。


子供達へのユーモアのこもったいたずらもあった。11歳から13歳の姉弟がよくケンカをしたらしくサンタクロースに扮してたしなめるたいりしている。面白い面もあったのだろう。


入り口の座敷に戻る。

阿部少年に影響を与えた自然を記した説明書がある。


 広さ---庄内平野から広さの観念

 高さ---北の鳥海山、南の月山から高さの観念

 奥深さ-では丘陵の奥行きから自然と人生との限りない奥深さ


東北大学100周年記念行事で阿部次郎記念賞を創設したとのニュースがあったが、東北大学にとっても阿部次郎は大きな存在である。仙台の阿部次郎記念館も東北大学の所有だった。