「高貴な生と凡俗な生--あるいは、努力と怠惰」---(「大衆の反逆」(オルテガ)から)

選ばれたる人とは、自らに多くを求める人であり、凡俗なる人とは、自らに何も求めず、自分の現在に満足し、自分に何の不満ももっていない人である。


高貴さは、自らに課す要求と義務の多寡によって計られるものであり、権利によって計られるものではない。まさに貴族には責任がある(Noblesse oblige


高貴であるということは、彼に名声をもたらしたつねならざる努力があったことを意味している。


貴族とは、つねに自己を超克し、おのれの義務としおのれに対する要求として強く自覚しているものに向かって、既成の自己を超えていく態度を持っている勇敢な生の同義語である。


彼らにとって生きるとは、不断の緊張であり、絶え間ない習練なのである。つまり彼らは苦行者なのである。


大衆の魂の基本構造は自己閉鎖性と不従順さからなっているからである。


なんらかの問題に直面して、自分の頭に簡単に思い浮かんだことで満足する人は、知的には大衆である。それに対して、努力せずに自分の頭の中に見出しうることを尊重せず、自分以上のもの、したがってそれに達するにはさらに新しい背伸びが必要なもののみを自分にふさわしいものとして受け入れる人は、高貴なる人である。