「言論人よ、群衆と真剣に向き合え」(梅田望夫)−−中央公論8月号

中央公論8月号の「時評」で梅田望夫が「言論人よ、群衆と真剣に向き合え」という小論を書いている。ネット時代の「知的生産」を考えるために久しぶりに「知的生産の技術」(梅棹忠雄)を読んだ梅田は、1969年に書かれたこの本の主張の先見性に感動している。

大学時代から戦後岩波新書のNO.1ベストセラーを長い間続けたこの本を社会に出てからも折りに触れて何度も読んでいるが、この本に限らず梅棹忠夫の本は読むたびにいつも新しい。この本の中で時代を感じさせるのは「ひらかなタイプライター」のあたりだけで、後はネット時代の現代においても十分に通用する、あるいはそういう時代の到来を見越して書いているのではないかと思わせるまさに名著である。


「知的生産」は「現代を生きる人間すべての問題」だと梅棹はいい、そのための技術を学校でも教えなくてはならないと述べている。そのとき、科目は何という名前だろうかと自問した梅棹は「情報科」だろうかと自答している。現代の学校でも情報を扱った科目は設置されているがそれはコンピュータの使い方を教える科目である。「知的生産の技術」を扱うという意識はあまり高くないのではないだろうか。40年近く前の梅棹の慧眼に驚くばかりだ。


論壇の意味は言論人が知的生産の成果を「人にわかるかたちで提出」することに意味があり、世のなかのあらゆる現場にその知が還元されること、及び読者一人ひとりの心を動かしていくことに意義があると梅田望夫は述べている。

ある筆者が総合雑誌に書いた論文を読む人々の中には政治や行政の現場で問題解決に当たろうとする人があり、その筆者を起用するということが起こるのだが、これも読者一人ひとりの心を動かしていくことでもあるから、二つの効果は同じ線上にあると思う。


ネット時代を疾走する梅田は、言論人は「もの言わぬ中間層」の厚みから直接学ぶべきであるという主張を展開する。

確かについ最近まで読者の声を直接聞くということは夢物語であった。


江藤淳(1933ー1999年)という大物の文藝評論家がいた。この人の本は評価も高く読者も多いのだが、何十年作家家業をやっていても、自分の本を読者が読んでいる姿を見たことがなかったそうだ。ところが、山手線に乗って座ったら向い側の紳士が自分の最新刊(山本権兵衛を描いた「海は甦る」だったか)を熱心に読んでいる姿をみた。江藤は驚き、またその姿と表情ををじっと感動を持って眺め続けたとのことである。勇気がなくて「その本の著者の江藤淳です」と声をかけることができなかたことを悔やんでいる。

若い頃、文藝春秋だったと思うが、そういうエッセイを面白く読んだことがある。


私も同じような経験をしたことがある。仙台のジュンク堂という大きな書店で本を探していたところ、若い女性が私の出した新しい本を手にとって眺めている姿に遭遇したことを思い出した。驚いて観察しているとその人は買うつもりでレジに向かおうとした。私はとっさに「あのう、その本を買いますか。わたし、著者の久恒です、、、」と声をかけたら、「今は仙台にいらっしゃるんでしたね」と驚きの声をあげた。少し会話をしたが、嬉しく恥ずかしく、そして幸福な思いがしたことを思い出した。


以上のエピソードでわかるように本に対する評価については、著者自身に直接届く情報は極めて少なかった。本を書き始めた時代から長い間、読者の反応は売り上げの数字と数ヵ月後に出版社からもらう読者カードだけだったが、インターネットの登場によって様変わりした。最近はネット書店での読者の投稿書評に加えて、読んだ人が書いているブログにも刺激を受けている。様々な人が、本の評価を論じている。著者自身が読んでいるとは思っていないから、影響を受けたとあったり、当たり前のことを書いているだけだと批判していたり、正直な感想が書き込まれている。

また、世の中にはレベルの高い知的な職業人が多数いること、そういう人の言説に身のすくむ思いもすることがある。


「もの言わぬ中間層」がネットいう武器の誕生によって、ものを言い出したのである。この中間層は、各界の現場で仕事をする人々であるが、団塊の世代の高等教育進学率(大学・短大)が1970年に23.6%であり、高度成長を担うビジネスマンとなった大学卒業生は、教養知ではなく、技術知としての経営学ブームの中で成長していった。専門知を身につけたテクノクラート型ビジネスマンの誕生だった。これが新中間大衆社会である。

現在では同世代の50%ほどの若者が高等教育を受けるようになって大学の質の低下という面が語られるが、この数字は日本における知的中間層の厚みの可能性を示してもいると思う。


梅田はネットという環境の中で自らの発言や自著に関するあらゆる評価、反論、批判に向き合うなかで、愛情と憎しみを込めてこの中間層を「群衆」と呼んでいる。そしてこの群衆による玉石混交の発言の嵐をくぐりぬける過程で、「叡智」を発見する。そしてこの群衆の叡智を自らの成長の糧にするべきだという確信を得ている。


企業の中で「お客様の声」をどうとらえるかが、その企業の商品やサービスの改善が永続的に行われるかどうかの試金石になっている。識者の意見を聞いてそれを商品に反映していく手法をとっている企業も多いがその多くは行き詰る。お褒め、苦情、意見などが錯綜する「声」に真摯に向き合うことによって「群衆の叡智」を吸収し、進むべき方向やヒントを得ている企業は多い。企業のマーケッティングは群衆の叡智の発見の競争ともいえる。

梅田望夫の今回の提言は、企業で行われているマーケッティングの考え方を、知識という商品を生産する技術者の世界にも導入することによって長期間にわたるサバイバルを果たそうという挑戦的な宣言であると理解したい。