河井継之助

思いがけず、すぐ近くに最近出来たという河井継之助記念館を訪問する幸運を得た。この記念館がこの長岡に出来たことは知らなかったが、山本五十六記念館の人が教えてくれた。終焉の地・福島県只見町にあった記念館に加えて、生誕の地にもようやく記念館ができた。
河井(1827年--1868年)は越後長岡藩7万4千石の家老となって明治維新前後のこの小藩の運命を握り、武装中立を宣言するが最後は官軍を大いに苦しめる。司馬遼太郎歴史小説「峠」の主人公として馴染みがある快男児である。河井の生誕地であるこの地には良寛が父を訪ねて「聴松庵を訪ねる」という詩を詠んでいる。
河井の断行した禄高改正(平準化)の説明があった。40500石の扶持を25000石に減じて財政を立て直すことにしたが、このため最高で2000石、最低で100石だったものを、最高で500石、最低で100石とした。「百人の禄を減じて、千人の禄を増し、人気(じんき)を調和して力を強くする」とい言われた改革である。
「民は国の本
 吏は民の雇」
「常在戦場」(この言葉は、同郷の山本五十六の心構えにもなっている)
「一忍を以って百勇を支う可く
 一静を以って百動を制す可し」(蘇東ばの父・蘇洵の言葉で河井の座右の銘。五十六はこの言葉を胸に軍縮会議に臨んだ)
「人というものは、出処進退の四文字が大切なものであり、進むと出るは人の推薦がなくてはならないが、退くことは自分で決めるものである」
「戦争はしたくないものだ。せめてもう四・五年も、戦争をせずにすむならば、汽船の二・三隻も買い入れ、家中の二・三男を商人に仕立てようと思う」

河井の協力者であった家老・山本帯刀の名跡を継いだのが山本五十六であり、この二人の因縁を感じさせる。
この長岡という町には小林虎三郎という人物も出ている。河井とは幼馴染みだが、後に長岡藩大参事として三根山藩からの救援米の百表を売却しその代金を国漢学校の整備資金にあてた「米百表」の逸話で名を残している。小泉首相が就任時にこのエピソードを用いて有名になった。この名前は佐久間象山記念館でもみた記憶がある。河井と同じく江戸遊学時代、象山の門弟だった。10月には米百俵まつりが催されるというポスターが貼ってあった。

長岡も駅前は現在はさびれているが、ある種の精神風土を感じさせる町だった。