「安宅コレクション 美の求道者・安宅英一の眼」(福岡市美術館)

福岡市美術館で開催中の「安宅コレクション 美の求道者・安宅英一の眼」を観た。
総合商社安宅産業は経営危機から昭和52年(1977年)に伊藤忠商事救済合併されたが、残っているのは会長だった安宅英一(1901ー1994年)がつくりあげた東洋磁器の1000点に及ぶ安宅コレクションだけである。安宅コレクションは曲折あって今は大阪市立東洋磁器美術館になっている。

戦後のシャウプ税制のよって美術品の大量流出が起こった。その動きの中で速水御舟(1894-1935年)の作品を一括買い上げたところから、このコレクションが始まる。そして速水御舟の作品に加えて韓国陶磁、中国陶磁という3つのジャンルからなる安宅コレクションが完成していく。

20世紀の始めの年に生まれた安宅英一は神戸高商を出て、父の安宅弥吉の安宅商会に入る。弥吉は禅の研究家・鈴木大拙の援助者としても有名で生涯にわたって大拙に資金援助を行った。「君は学問の道を貫き給え、私は商売に専念して一生、君を支える」。
英一は26歳でロンドン支店長となり、帰国後の30代半ばから陶磁器や音楽に関する活動を始めている。35歳で双葉山の後援者になった英一は、50歳のとき安宅産業の事業の一環として美術品購入が認められると本格的な蒐集を開始する。54歳で会長になった英一は、58歳で中村紘子に会い、60歳では日本音楽コンクールに安宅賞を設けている。64歳、相談役。67歳、最大の理解者となった日経新聞の後の社長・円城寺次郎と出会う。74歳のときに起こった巨大な債権の焦げ付きで75のときにコレクション購入を停止。79歳、コレクションを大阪市に寄贈。93歳、死去。

音楽の安宅賞は、年間12-16名で500万円の規模の賞であるが、英一は若い音楽家に対して海外留学や滞在の支援をしている。声楽家の中山悌一、バイオリニストの辻久子声楽家の大橋国一、声楽家五十嵐喜芳、ピアニストの田中希代子、柳川守、中村紘子チェリスト堤剛、ピアニストの野島稔などが安宅英一の援助で巣立った人たちだ。

もの自身をして語らしむことを念じていた英一は文章をほとんど残さなかった。
 
 人でも、ものでも、結局のところは品ですね。品格が大切です。

 ものは、三顧の礼をもって迎えるべし

 人にお辞儀しているわけではなく、その後ろにものが見えるのですよ。
 ものに向かってはいくらお辞儀してもし過ぎることはありません。

安宅英一に美術品購入で仕えた伊藤郁太郎によると、
大きな戦略を立て、決して急がない、入念な戦術、考えられる限りの手を打つ、というからコレクターとしての執念の塊だった。金があればコレクションができるわけではない。

伊藤は、「もっと静かなもの、声高にはしゃべらないもの、正統的なものにこそ本物があり、ものの姿が潜んでいるような気がするのです」と陳列の最後で述べている。安宅は本物を蒐集しようとしたのである。

以下は印象に残った作品。

「青磁陽刻 牡丹蓮花文 鶴首瓶」--立原正秋が気品ある三十女にたとえた
「粉青白地象嵌 条線文 祭器」--英一が「弁慶」と名付けた逸品
「青花 草花文 面取瓶」--深い乳白色の朝鮮時代のやきもの

売店で「安宅コレクション余聞 美の猟犬」(伊藤郁太郎)を読みながら、コレクターという人生を全うした安宅英一のことを思った。猟犬は伊藤本人のこと。
この企画展が「安宅英一の眼」となっているのは、その眼が選んだものを展示するという意味で、ものの背後にある安宅英一の眼を感じてもらいたいということだろう。
コレクターという人々にも興味が湧く。