「私の伊勢物語」を読む−−在原業平の真の姿

伊勢物語」の主人公と思われる在原業平の没年は紀元880年で享年は56歳だった。
この125段の独立した非常に短い物語は作者不詳だが、成立は10世紀の初め頃と推定されている。内容は209首の和歌を中心とする物語である。
源氏物語」は今年が千年紀というから、完成したの1008年である。伊勢物語の100年後あたりだから、紫式部はこの伊勢物語の主人公である在原業平の物語も参考にしたであろう。

「むかし男ありけり。」で始まる伊勢物語の男、在原業平は色好みと評されている。全編にわたり和歌を通じた男女のやりとりが中心であり、そういう印象が強い。実際、中学・高校時代にこの名前に接したときはプレイボーイという印象しかなかった記憶がある。しかし、「私の伊勢物語」(久恒啓子著・短歌新聞社)の解説を読みながら古文を読むと、この男の屈折した心も見えてくる。
平安初期という藤原家全盛の時代に権力に迎合した父を許せない業平は、自分の信じた生き方を貫き、権力に関わる女性(高子)に近づく。そのため都においてはある時期に13年にわたる出世の異常な停滞を経験している。また京におれなくなった業平は「東下り」(あずまくだり)を行い、その途中や東北でも数々の物語を生んでゆく。

高子とのかなわぬ恋、そしていろいろな女との交渉に目を奪われがちだが、「私の伊勢物語」はその物語のいたるところに権力に抗し、苦しみ、もがく人物の苦悩やその時代背景を垣間見せてくれる。

伊勢物語」の和歌には知っているものも多い。

名にしおはばいざこと問わむみやこどりわが思ふ日人はありやなしやと
つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを(辞世の歌)

名前と断片的な知識しかなかった伊勢物語在原業平だが、「私の伊勢物語」の歴史的事実に基づいた簡潔でかつ平明な解説と、細やかな情感や人情の機微を察する著者の歌人として観察眼によって、私たちは1000年以上も前の社会の様子(例えば、女の家に男が入るのが普通で、女の親に男は養ってもら)を身近に感じることができる。

和歌を詠みあいながら恋愛をすすめていくという文化の高さ、優雅さには驚きを禁じえない。
当時は漢詩が主流で、和歌は重きをなしてはいなかったが、心を歌う和歌を得意とした業平の心情には心を打たれるものがある。

この本は236ページにわたって一貫した流れとトーンで、伊勢物語を描ききっているところがいい。著者は主人公を暖かく見守りながら解説をしていくが、その視点は揺るがない。
10年以上にわたって同人誌を舞台として発表してきたものをまとめなおしたものであるから、細部もきめ細かく配慮がきいている。
著者は60歳から70代の前半に及ぶ長い夫の介護生活の中でその合間に伊勢物語と向き合い、80歳になってこの書物にまとめた。この本は著者にとっては歌集を除いては2冊目の単著である。「万葉集の庶民の歌」も60代の10年間をかけて研究したものを70歳で出版している。

楽しみながら長い時間をかけた丁寧な研究は素晴らしい成果に結実した。
名前しか知らなかった古典に親しむきかっけにしたいという著者の願いは少なくとも私には届いた。