ジョンはジョンになっていった---ジョン・レノン・ミュージアム

さいたまスーパーアリーナの一角にビートルズのリーダーだったジョン・レノンの記念館がある。
このジョン・レノンミュージアムは、生誕60年の2000年10月19日にオープンしたということなので、1980年に凶弾に倒れず生きていたらまだ68歳である。パートナーだったオノ・ヨーコの許諾を得た世界初の公認ミュージアムで、オノ・ヨーコ秘蔵のゆかりの品も130点展示されている。9つのゾーンに分かれた立派なミュージズムである。私は音楽は全くの門外漢であり、ビートルズ世代であるにもかかわらず、当時あまり興味を覚えなかった。このミュージアムビートルズジョン・レノンを追憶してみたい。
ジョン・レノンの創作活動の重要なテーマは「愛(Love)」であるが、1970年にはそれは「リアルであること、感じること、触れること」と定義してあった。
少年時代から優れた文章力をみせたジョン・レノンは、「自分に見える世界がほかの人には見えないらしい」と気づき、「僕は狂っているか、天才か、どちらかにちがいない」(I must be crazy or agenius.)と思った。中学上級学年で出会ったプレスリーの「ハートブレイクホテル」で音楽に目覚めたレノンは、「ロックンロールが僕の人生を変えた」と述懐している。16歳の時に一つ下のポール・マッカートニーに出会い、次に3歳年下のジョージ・ハリスンが仲間に入る。空前の大成功したビートルズ。ジョンは「今や僕たちはキリストより人気者だ」と述べて、アメリカでの排斥運動を呼ぶ。暗殺をほのめかす動きに疲れたビートルズはコンサート活動の停止を余儀なくされる。
そんな中、ジョンは日本人の前衛芸術家、オノ・ヨーコと出会う。「僕と同じようなアーチストの女の子に会いたいと願っていた。でも。それは夢物語だと思っていた。そんあとき、ヨーコに出会って夢が実現したんだ」。エルヴィスを超えることが目標だっビートルズは「抱きしめたい」などでアメリカのヒットチャートを1位から5位までを独占したが、出演したエド・サリバンショーでは72%という空前の視聴率をあげた。「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」(1967年)は、ビートルズの音楽革命と呼ばれる。

4階からエスカレータで5階に昇ると、オノ・ヨーコとの出会いとそれ以降のジョン・レノンの歴史がある。オノ・ヨコは、1933年2月18日生まれ、ジョンより7つほど年上である。学習院大学を出てアメリカのサラ・ローレンス大学に学ぶ。作曲家の一柳慧と最初の結婚、二度目は映像作家のアンソニー・コックスと結婚し、キョーコ(京子)を出産している。
「グレープフルーツ」というヨーコの本が展示されている。「この本は読み終わったら燃やしなさい」という強烈なメッセージが書かれており、後の名曲「イマジン」のきっかけとなった。イマジンは、詩がいい。「想像してごらん、天国なんてないんだ」「みんないまこの時を生きているんだ」「「想像してごらん、国境なんてないんだ」「想像してごらん、財産なんてないんだ」「みんなで世界を共有しているんだ」、、。
ヨーコと出会ったジョン・レノンは、しだいにヨーコとのより幅広い多様な活動に軸足を移していく。二人は平和を求める若者たちの新しいリーダーになっていく。イマジンについてヨーコは「ジョンの夢の結晶でした。彼の理想主義の結晶がここにあるのです」と語っている。
ジョンとヨーコのアートを知るキーワードのコーナーがあり、1.コンセプチュアルアート(コンセプトやアイデアを作品の核にして、言葉、行為、身体、イベント、コンサート、写真、ビデオまでを作品の素材とするアート)、2.前衛フィルム、3.イベント、4.バッグワンの説明がある。
ロンドンからニューヨークに移って活動するジョンに対し、アメリカ政府は反体制的人物であるとし、国外退去を命じる。そしてFBIによる尾行や盗聴に苛ままれ、精神的に追いつめられる。1973年にはヨーコと別居し、ロサンジェルスで酒と薬物漬けの「失われた週末」に浸る
。1974年にヨーコと再会し二人の生活が再び始まり、二人の子供が生まれる。ジョンはショーンの誕生を機に主夫(ハウス・ハズバンド)に専念する。
フィナーレ・ルームでは、透明なボードにジョン・レノンからのメッセージが日本語と英語で多数書かれている。不思議な空間だ。
「ぼくが これまで どうやってきたかは 
 おしえられる けど 
 きみが これから どうすかは
 自分でかんがえなきゃ」

一時間ほどかけてミュージアムをみて、ビートルズジョン・レノンの名曲の入ったCDと「回想するジョン・レノン」という本を買った。この本はジョン・レノンが30歳のときに行われたロングインタビューをまとめたものである。市場空前の大スターであったビートルズのリーダー、ジョン・レノンが肉声で率直に語っており、実に興味深い。仲間やスタッフについても驚くべき発言が多い。やはり、伝記よりも自伝の方に興味が惹かれる。

  • アーチストであることは、すこしも楽しくないですからね。
  • 私はアーチストであることに憤慨しています
  • もうビートルズは信じていないのです、夢は終わりました。
  • みんな、どれも、無理なくわき出て来たものです。誰の場合でも、最高の仕事はみんなそうなのです。
  • 私たちは、技術的に有能なレコーディング・アーチストいなっていきました。
  • 天才であることも苦痛です。ただ単に、苦痛です。
  • 私は、ヨーコのほうをとったのです。私の選択は、間違っていませんでした。
  • 私たちふたりの関係以上に重要なものは、なにもありません、ぜったいになにも。
  • 歌を客観的につくるのではなく、主観的につくりはじめたのです。
  • 私たちが忘れているのは、いま、この瞬間を生きる、ということです。持ちこたえていれば、、、、。
  • みんなが、まるで泥棒するみたいに、私たちにたかっていたのです、、、
  • 私は、すべてを包括したぜんたいのなかにいたいのです。概念とか哲学、生き方、それに、歴史ぜんたいの動きなど、すべてです。
  • アイルランドの海のちかくとか、そういったところに住んでいる、すてきな老人夫婦になっていたいと思うのです--狂気のスクラップ・ブックをながめて暮らすというような。

ビートルズはヨーコの出現によって終わりを迎えたのだが、ヨーコの次の言葉が印象に残った。
ビートルズとして存在していたために、ジョンは、ほんとうのジョンよりもスケールが小さくなってしまっていたようなものです」
ジョンは、ジョンになっていったのである。


(参考・引用文献:草思社 1974年『回想するジョン・レノン』 ジョン・レノン 著, 片岡義男 翻訳 )