2008-06-01 梅棹忠夫先生の米寿を祝う会--梅棹忠夫の世界

k-hisatune2008-06-00

宝塚市手塚治虫記念館と茨木市川端康成文学館を訪ねた後、今回の旅の目的であった「梅棹忠夫先生の米寿を祝う会」に出席するため千里中央の阪急ホテルに向かう。

梅棹先生は著作集が20巻あり、10幾つもの筋を追って来ているが、そのうちの一つが「知的生産の技術」である。この岩波新書は現在までに79刷りで133万部のロングセラーであり、この名著の名前をいただいた勉強会が発展したNPO法人知的生産の技術研究会のメンバーたちが招待された。東京から駆けつけた八木哲郎さん、秋田英澪子さん、関西からは、水谷哲也さん、諏訪仁さん、溝江玲子さん、そして関係者の正賀幸久さん、中沢義則さんと会場でお会いできた。

この会は先生の88歳の米寿のお祝いの会で、親しくしている方が集まったということだが、380名の出席ということだった。13時半からはシンポジウム「梅棹忠夫の世界」、16時半からはカクテル・パーティというプログラムである。

シンポの司会は、小山修三(吹田市立博物館長)、パネリストは「知の探検家」というテーマの石毛直道(民博名誉教授)、「狩猟と遊牧の世界」の小長谷有紀(民博教授)、「文明の生態史観と現在」の高田公理(仏教大教授)、「情報産業論--世相を見る指針」の飯田卓(民博准教授)。

石毛直道は、梅棹先生を一流の地理的探検家でありかつ優れた知の探検家であるとした後、梅棹の原点は探検であるとして、地理的には「文明の生態史観」、歴史的には「情報産業論」を置いた。そしてベンチャーである国立民族学博物館(民博)の創業者と経営者として説明した。中国旅行からの帰国後ウィルスによる視力喪失した66歳から著作集のほかに30冊の単行本を出版しており、暗闇の世界の知的生産の技術も獲得したと紹介。

小長谷有紀は、「知的生産の技術」が133万部、「モゴール族探検記」が26万部、「文明の生誕史観」が25万部と紹介。生態学的二元論に基づき狩猟と放牧の世界を遅れているとした今西錦司と、きわめて適合的であるとした多元論の梅棹忠夫の理論を比較。

梅棹先生は「カミソリ梅棹と呼ばれるのは心外だ。大だんびらを振り回しバサッとやるのが私流」、「フィールドでは見たもの、聞いたものを何でもかんでも書き留めた。レオナルド・ダ・ヴィンチの発見の手帳をまねした」と感想の中で述べられた。

高田公理は、1956年のトインビーの「6つの文明の中で健全なのは西欧文明のみで、日本は12世紀から衰退局面」という理論に対し、西欧と日本は並行進化したとの新理論を発表し当時の主流であった唯物史観に挑戦したと説明し、またインドは東洋でも西洋でもない中洋であるとの発見など、ユーラシア大陸の文明構造を理解するモデルをつくったと述べた。植物生態の遷移理論を用いて、封建制、絶対王制、近代資本主義と移行してきた西欧と日本は親戚であるとの理論で西欧と日本の近似性を説いたとした。梅棹の独創は、機能面から説明した文明のダイナミズム、サクセッション(遷移)理論を援用した系(システム)全体としての社会、自分の足と目を使って自分の頭で考えた、として人類文明を自然史の中で理解する地球モデルにあるとした。

梅棹先生は「インドはヒンズーの世界で、多神教の神々の躍動、人間のものすごさ、かくもいやらしきものか、とぞっとした」「西欧と日本は同じ。殿様、武士、坊主、、。ローマと京都は永遠の都。ドイツは日本によく似ている」。

飯田卓は、梅棹先生の予言の正確さを指摘し「情報の文明学」を論じた。「人間と人間のあいだに伝達される一切の記号の系列」から進んで「人間の感覚と諸器官がとらえるすべてももの」を情報の定義とし、情報が最も重要な地位を占めるのが情報社会であると説明。内胚用葉(農業)、中胚葉(工業)、外胚葉(情報)。お布施の原理による価格決定。コンニャク情報論。そして飯田は情報産業のほころびは、情報商品を工業製品感覚で処理しようとしたことが原因であるとして、ブランド情報を論じた。

梅棹は「だいたい予言は当たっているでしょう。だいたい間違いはない」「いつまでも漢字を使っていては日本文明は大変。はやくローマ字にしなければ」「自己評価をすると、骨組みをしっかりしているが、美学的ではない。非常によくわかる文章を書くが美しくはない」。「コミュニケーションと情報は違う。コミュニケーションには送り手と受け手があるが、情報には受け手のみ存在する」。

私の前の席には、粕谷一希袴田茂樹がいたし、質問に立ったのは、樋口啓二、松本洋、中嶋嶺雄という有名人たちだった。会場には梅棹忠夫先生に対する尊敬と親しみが満ち溢れていて、みんなが好意的に聞き、そして反応しており、あたたかい雰囲気で、この一代の碩学の米寿を祝っているという印象を深くした。

略年表を改めてみる。大阪市立大学助教授として29歳から45歳までの15年間、京都大学は45歳から54歳までの10年間(助教授・教授)、そして民博館長として54歳から73歳までの20年間。37歳「文明の生態史観序説」(中央公論)、43歳「情報産業論」、47歳「文明の生態史観」、、、。84歳から85歳にかけて肺がん、胃がん脳梗塞、手術とリハビリで復帰される。

カクテル・パーティでは、関西電力の小林庄一郎が「梅棹先生はひっそりと静かに山木のように生きたいとおっしゃっていたが、今や御神木になられた」と挨拶。梅棹先生は車椅子に座ったままで「楽しい人生でした。ありがとう」と答礼された。

パーティの途中で梅棹先生に知的生産の技術研究会のメンバーとごあいさつした。私は宮城大から東京の多摩大に移ったことを報告。

終了前に会場を出て、18時53分の新幹線で新大阪から東京へ向かう。