林芙美子記念館(新宿)を訪ねた日は、芙美子の命日だった

k-hisatune2008-06-29

新宿区落合の高級住宅街の一角にある女流作家・林芙美子の旧居を訪ねた6月28日は、たなたま47歳の若さで逝った林芙美子の命日だった。
林芙美子は1992年(大正11年)に生まれ貧乏の中で文学を志す。1930年(昭和5年)の27歳で書いた「放浪記」がベストセラーになって一躍スターダムにのしあがった以後活発に小説を刊行していく。この伝記的小説を菊田一夫脚本で舞台になった「放浪記」は森光子が80歳を超えたてなお演じ続けており「でんぐりがえし」で話題になっているが、初演は1961年(昭和36年)の芸術座というから47年間という途方もない期間である。生誕100周年の2003年時点で1600回というこう公演回数であり、この記録は今も延び続けている。代表作である「放浪記」は当時の流行だったプロレタリア文学陣営からは、無思想の「ルンペン文学」と批判されるが、芙美子は「自分が産んで苦しんだところの思想こそだ誰にも売り渡していない私自身の貞操だ」と反撃した。放浪記は「続放浪記」、文庫版と合わせて60万部が売れた。
坂に沿った300坪の土地を入手した芙美子は200冊の家造りに関する書物を読み、山口文象という設計者や大工を連れて京都まで民家や茶室を見学に行くという熱の入れ方だった。「東西南北、風の吹き抜ける家」という考えで、「何よりも、愛らしい家を造りたい」と芙美子は願ったが、満足のいく出来栄えとなったようで、自分の生きている間は少しでも手を入れてはならない、と家人に申し渡していた。客間には金をかけずに、茶の間と風呂と台所には十二分に金をかけた。また、総檜の落とし込み式の浴槽、水洗便所、見苦しくないように電線は地下に埋めっている。芙美子の家造りは当時としては尋常ならざるものだとういうことがわかる。
生活棟とアトリエからなり、庭には孟宗竹、寒椿、ざくろ、かるみや、おおさかづきもみじ、などの木があり、カタクリサフランなど四季折々の草花を楽しむことができる。山野草は200種類。春も、夏も、秋も、冬も、それぞれの風情で慰めてくれただろう。この家全体を一番いい角度から眺めることができるという場所に立つと緑豊かな敷地に二つの棟が立体的に見える。芙美子は何度も満足しながらここに佇んだのだろう。
しかし、この家に住んだのは10年という歳月しかなかった。47歳で芙美子は生涯を終えてしまう。芙美子が好んで色紙に書いた「花のいのちはみじかくてくるしきことのみ多かりき」を見ると、芙美子の短い生涯が二重写しとなって切なくなる想いがする。
芙美子が書いた原稿量は原稿用紙3万枚といわれている。短い作家生活の中で100冊分の単行本に相当する文章を書いた。
「50歳ころまで生きることが出来るならば、50歳になって、ほんとうの「放浪記」を書いてみたいと思っている。「放浪記」にかぎらず、本当の小説というものを書いてみたいと思っている」と言っていたから、寿命が長ければどのような作品を残したか、興味深い。
「貧乏をして何日も飯が食えぬと私を叩き、、、殴り、、、打しゃくし、全く、毎日私の骨がガラガラと崩れて行、、」と二人目の夫との救いのない日々を「清貧の書」で吐露している。
芙美子は交友が広い。宇野浩二からは「話すようにお書きになればいいのですよ」とアドバイスをもらっているし、葬儀委員長をつとめた川端康成とも親しかった。川端は葬儀のあいさつで「故人は自分の文学生命を保つため、他人に対して、時にはひどいこともしたのでありますが、、、、死は一切の罪悪を消滅させますから、どうかこの際、故人を許してもらいたいと思います」と語ったと伝えられている。芙美子はどのようなことをしたのだろうか。
生誕100周年記念「林芙美子展」が2003年に北海道、高知、新浮く、春日井市、そして仙台でも開催されている。2003年には仙台の私の家から車で15分ほどの距離にある仙台文学館で行われていたが、当時の私はまだ「人物記念館の旅」を始める前で興味がなく見逃している。
アトリエでは、NHK「あの人に会いたい」を流していた。この番組では空の星になった故人たちの生前の姿を見ることができるので好きな番組だ。若い女学生に問われて「本、絵、音楽、、若い時代に何でも吸収してほしい」と述べている。また、このビデオの中だったか、展示している資料の中だったか、「日本人はおおゆすぎにゆすがれるのはいいことだ」と終戦直後のことを語っている。根っからの小説書きと自称た芙美子は「60、70になってほんとうのものが書けるようなきがする」、「泣いたことのない人間はいやらしいし、怖いし、つまらない人間だ。泣くだけ泣かなきゃ」、「ずいぶん絵が好きです。絵描きになりたいと長い間考えてまいりました。」と語っている。
流行作家となった芙美子は、「私は、このごろ、小説を書く以外に何の興味もない。私に生きよという事は小説を書くという事とだ。」といい、「このごろ、私は自分の小説に馬乗りになっている自分を感じる。まだ私という作家は吐き出せると思っている」と心境を語っている。
林芙美子は、新聞、雑誌の連載、や短編小説以外にも、随筆、紀行文の執筆、座談会、講演など仕事が多かった仕事を断ることを知らない働きぶりだった。このことが芙美子の寿命を尽きさせていく。
NHKラジオで語った晩年の言葉が残っている。「私はやっぱり庶民的な作家で終わりたいと思っています。、、、いつ死ぬかも分からない。だから無駄弾丸は抛りたくない。、、、みんなに共感を持たれるような、そして庶民の人が読んでくれるような、仄々としたものを書きたいと思っています。」