「悩む力」−−「性格」書評の試み

異色の政治学者・カン・サンジュンが書いた「悩む力」が売れている。在日韓国人としてのアイデンティティの問題に30歳位まで悶々と向かいあってきたカン・サンジュンは、この本で夏目漱石とマックス・ウエーバーをヒントに生き方についてのメッセージをこの本で発している。

「私」と何者か」という第1章では、まじめに悩み、まじめに他者と向かい合う。そこに何らかの突破口があり、自我の悩みの底をまじめに掘って、掘って、堀り進んでいけば、その先にある、他者とと出会える場所にまでたどり着けるという。
「世の中すべて「金」なのか、という第2章では、できる範囲でお金を稼ぎ、できる範囲でお金を使い、心を失わないためのモラルを探りつつ、資本の論理の上を滑っていくしかないと自ら平凡とする結論を導き出している。

「知ってるつもり」じゃないか、という第3章では貪欲に知の最先端を走ることも大切だが、熟練とでも言うべき身体感覚を通した知のあり方を大事にすべきと提言している。
「青春」は美しいか、という第4章では青春の蹉跌を繰り返しながら、、何が何だかわからなくても、行けるところまで行くしかない」という結論を導き出している。
「信じる者」は救われるか、という第5章では、自分でこれだと確信できるものが得られるまで悩みつづける、あるいはそれしか方法がないということを信じるしかない、という。
何のために「働く」のか、という第6章では、他者からのアテンションを求めて働くのであり、自分が社会の中で生きていいという実感を持つために働くしかないとしている。
「変わらぬ愛」はあるか、という第7章では、愛とはある個人とある個人の間に展開される「耐えざるパフォーマンスの所産」であり、絶えざる意欲を持ち、怠けていてはいけないとアドバイスをしている。

なぜ死んではいけないか、という第8章では、人とのつながりを考え、つながりを求めつづけよと言い、自ら死ぬことを戒めている。
老いて「最強」たれ、という終章では、福沢諭吉の「一身にして二生を経る」という言葉をあげ、目前に迫った60歳以降の夢を描いている。これまでの人生とはまったく違うものに挑戦したいとして、役者になること、映画をつくること、大型二輪の免許をとってハーレーダビッドソンに乗って日本縦断と朝鮮半島の南北縦断の旅をすることをあげている。そして横着者になりたいと結んでいる。

以上が著者が述べていることだが、この本を読む中で、人間の性格というものを考えざるを得なかった。この人はある性格を背負っていてその性格が指し示す方向に沿って生きてきたのではないだろうか。

物事の本質を見抜こうとして知識や情報を蓄積することを好む。分析力や洞察力に優れている。もの静かで冷静沈着。一人の時間を大切にする。わずらわしい人間関係は最小限にしたい。静かで知的な印象。集団の中では傍観者になる。周囲を常に観察して本質をつかむ。
この著者はこういうようなある類型の性格を持っていると思う。このタイプは考えすぎて実際の行動をしなくなる傾向があるため、そこから逃れるために意識して実体験を重ねていくことが必要だといわれている。自分の内面に閉じこもりがちになるから、他者とのつながりを持つ中から多くの気づきを得る。

このタイプにたいして有効なアドバイスは、「人は孤独ではない。愛の絆で結ばれている」「自己嫌悪に苦しんでいても、生きている価値がある」「「人間は一人で生まれて一人で死んでゆく。でも一人では生きていけない」などである。

さて、こういうことを考えた上で、著者の言葉を拾ってみよう。
・私が「心」をドイツに持っていった最大の理由は、この小説が「人と人とのつながり」というものについて、多くのことを語ってくれているからでした。
・誰もが自分の城を頑強にして、塀も高くしていけば、自分というものが立てられると思うのではないでしょうか。
・人とのつながりの中でしか、「私」というものはありえないのです。
・自我に目覚めてからは内省的で人見知りをする人間になってしまいました。
・自我の悩みの底を「まじめ」に掘って、掘って、堀り進んでいけば、その先にある、他者と出会える場所までたどり着けると思うのです。
・貪欲に知の最先端を走ってみることです。、、、身体感覚を通した知のあり方にまで押し広げてはどうかと考えています。
・私は「なぜ働かねばならないのか」という答えは、「他者からのアテンション」そして「他者へのアテンション」だと言いたいと思います。

人と人とのつながりを強調するのは、この性格タイプがいい状態になっ時の特徴であるし、「誰もが自分の城を頑強に、、」というイメージはこの性格タイプ特有の考え方でもある。誰もが、という言葉は適切ではなく、あるタイプの誰もが、なら納得できる言葉だ。
内省的で人見知りするこのタイプは生きにくい。だからしつこく考え抜いていくことになるのだろう。

また、このタイプはいい状態であれば、強い人格に憧れるということがある。本にも出てくるが岡本太郎のような強い人物に関心を持つ。そして岡本太郎に代表される人たちは頭より体が勝つタイプだ。だから著者のようなあるレベルを超えた人は逆に、体に興味を持つのである。
実生活とは正反対の役を演じたいというのはその現れであるし、映画をプロデュースしたというのは強いリーダーとしてまとめていきたいということだろう。ハーレーダビッドソンで飛ばすというのは、身体感覚への強烈な信仰と理解できる。
要するに、性格というものが脳に与える影響が極めて大きいということになる。性格という基本ソフト(OS)の中で私たちは動いているといえる。

「他人とは浅く無難につながり、できるだけリスクを抱え込まないようにする、世の中で起きていることにはあまりとらわれず、何事もこだわりのないように行動する、そんな「要領のいい」若さは、情念のようなものがあらかじめ切り落とされた、あるいは最初から脱色されている青春ではないでしょうか」と著者は言う。こういう読者にこの本は共感をもって受け入れらているのだと思う。

人生論にはいろいろなタイプがある。それぞれいいことを言っているのだが、実は自分の性格に沿って弱い面を克服する方法を述べていると見ることができると思う。だからどの本も同じタイプの人にされる支持されて一定程度売れるのだろう。