与勇輝(人形作家)----「逝きし世の面影」を形にした人形館

k-hisatune2008-08-04

河口湖の宿から引き揚げ富士急線の乗る前に河口湖ミューズ館を訪ねる。別名を「与勇輝館」という。

与勇輝(あたえゆうき)という名前は本名だそうだが、有名な創作人形作家である。湖畔の実に眺めのいい場所に場所に立つ瀟洒な雰囲気の建物だ。建物の中のティールームからラベンダー畑とその先に広がる河口湖の景色の素晴らしさをガラス越しに堪能できる。今回は人形作家に縁がある。

年譜を見ると、1937年生まれの与は1965年の28歳の時に創作人形師を志す。その5年後には辻村寿三郎らと人形作家グループによる第2回グループ「グラッブ」人形展に参加している。その後、活発な創作活動を続けるが、日本テレビ「美の世界」、テレビ朝日徹子の部屋」、テレビ東京「美に生きる」、やNHK趣味百科「人形をつくる」の講師もつとめているから知っている人も多いそうだ。

この館には与の作品の各種の人形が展示されているが、暗い館内にビデオをみるコーナーがあり、7人の男女が動かずにじっと画像を見ている後姿が最初に目に入った。これは人形なのだろうかとしばらく観察していると動きがあり本物の人間だということがわかってほっとした。作品は、「お庭のすずめ」「闘--?」、「うなぎ」、「おこた」、「ごめんください」、「宴」、「ジミー君」、「泰明ちゃん」など昭和初期の子供の姿を描いた人形が多い。昨日見た「和紙わらべ」と相通ずるところがある。」「午後の乗客」は、電車の中で座っている人物を描いた長い作品で、それぞれの職業や特徴が実によくできている。素材である布を手に入れるのは砂金を探すような作業だそうだ。

例によって言葉を収集する。

「私が人形を作るのはたいてい深夜です。雑念を払い、全神経を集中させて己を興に乗せ一気に仕事をするように心がけています。」

「人形作りは、いつも自分との戦いであると感じながら、これからも精進したいと思います」

「立たないということは、人形として生きていないのです」と、本人が言うように、温かみのある木綿布をそ愛として自分の力でしかりと立つことができるのが特徴とされている。指先から髪の毛、ボタンや草履、銀杏のキュウリなどの小物も、すべて手作業で丹念に仕上げれている。「時代の流れとともに、確実に失われてゆくものへの愛惜の念を、人形という形で表現できたら、、、」、これが与の志である。

ショップで買ったアリア書房の「瞳」という本の中に与の談話が載っている。

「私が人形作り一本でやっていこうと思ったのは、40歳のころ。それまで勤めていたマンキンの会社を辞めました。とにかく好きなことをしたい。食える食えないは別の問題だと思いました。それからは、自分は人形で自分を表現してきた。人形を作るということは、自分自身を投影して、まさに己の分身を作るようなものです。ですから、自分自身を見つめる作業なくして、人形作りはできません。」

「出来上がった人形は独立した人格があると僕は思っている」

「人形作りは、日記を書くようなもの。そのときに何を考えていたのか、どんな自分だったのか、後に距離をおいて見るとわかる。だから照れくささもありますが、そういうときの自分をしっかり見つめないと次が作れなくなってしまう。人形という「鏡」に映る自分をしっかり凝視していかなくてはならない。そうすることで新しい自分を発見してゆくのです。」

この人形作家は作品もいいが、生き方にかかわる言葉も心を打つ。

この人形館も、渡部京二の名著「逝きし世の面影」の一部を表現したものという感じもする。与本人は誰にもある子ども時代というが、本人が生きた時代が色濃く写っている。71歳を迎える与勇輝、そして86歳になった和紙わらべの高木栄子のいずれも子供を題材にしているが、それぞれ見る者に懐かしい感じを抱かせる。まさに失われた「逝きし世」の面影を見ているようだった。