吉川英治記念館

k-hisatune2008-08-15

国民作家と呼ばれるほど読者の多かった吉川英治(1892-1962年)の記念館を青梅に訪ねた。この記念館のある場所は当時は西多摩郡吉野村といった。多摩という名前は多摩市だけでなく、随分と広い地域を指しているのだと改めて実感した。野村という庄屋の家を自宅として使用した土地と家がそのまま記念館となっている。ここを吉川は草思堂と名付けた。吉川英治疎開先のこの梅の里を愛しており、2千坪にのぼる土地と家を気に入っていた。母屋は外からしか覗けないが、「吾以外皆師」という吉川英治座右の銘を見ることできる。

母屋にくっついた形で明治中ごろに建設されたという洋館を吉川は書斎として利用していた。戦後しばらく筆を折っていたが、「宮本武蔵」とともに代表作とされる「新・平家物語」を58歳からこの書斎で執筆している。方形の書斎は、中央に座卓が置いてあり、原稿用紙を押さえるぶんちん、眼鏡、虫眼鏡を載せた地図、日本医学史などの厚い書籍や辞書類が卓上に並んでいる。吉川は座卓を使っていたようで、執筆当時の様子がそのまま再現されれている。人物記念館には作家の仕事場である書斎をそのまま見せたり再現させたりするところが多いが、ここは司馬遼太郎記念館と同じくそのまま派である。松本清張記念館は再現派だった。いずれにせよ、作家の戦場である仕事の現場は興味深い。

ゆるい登り坂の先に大きな木が立っている。吉川は愛した椎の木である。この木陰で疲れをいやしていたそうだ。資料館に入ってビデオをみる位置に陣取ると、大きなガラス窓を通して先ほどの椎の木の見事な姿が目に入る。資料館の隣に建つ倉庫には1万5千点の資料があり、そのうちの300点が公開展示されている。

実家の没落で11歳で小学校中退となった吉川英治漆器職人など職を転々としたが、32歳から本格的に作家の道を歩みだす。「剣難女難」、「鳴門秘帳」、「親鸞」、などを書き花形作家となる。昭和10年から4年にわたって朝日新聞に連載した「宮本武蔵」では、剣禅一如の道を歩む新しい武蔵を書いた。この連載と本は、求道、克己、そして絶え間ない向上心がテーマであり、人生の書として人気を博した。読売新聞に連載した新書太閤記三国志、戦中はペンの従軍として各地を訪問していたが戦後はしばらく絶筆。そしてこの地で7年間にわたり大作「新・平家物語」に没頭する。この大作を書き終えたとき、「あとかたもなきこそよけれ湊川」とその心境を記している。

吉川は昭和35年当時の八木治郎アナウンサーのインタビューに「読者は自分を読んでいる」と答えている。「読者の呼び水と僕、それが小説の書き方の秘密」だった。そういう工夫を吉川は小説の中に盛り込んだのだ。そしてどのような作品にも、今現在という時代を投影させていた。「吾以外皆師」という言葉とともに「大衆即大知識」という言葉も好きな言葉だった。まさに大衆とともに生きた国民作家だった。

新・平家物語で書ききれなかった「権力の魔力」をテーマとして次にとりかかったのが毎日新聞に連載された「秘本・太平記」である。最後の作品が「新・水滸伝」だったが、これが絶筆となって、50年余にわたる作家生活を閉じている。吉川英治は恋愛よりも、家族愛を描くことに自らの資質を自覚していた。それを骨肉愛と表現している。親子、兄弟などの骨肉の愛情を描くことがテーマだった。だから多くのファンを魅了したのだろう。

「新・平家物語」連載中のゲラの直しが展示されていた。赤鉛筆と青字を駆使した書き込みの多いゲラだった。

吉川はゴルフも好きだったようだ。名門・軽井沢カントリークラブの名札もあったが、スコアカードが数枚見ることができた。川口松太郎石川達三石坂洋次郎、などの名前が見える。吉川は52・58で計110、54・62で計116、50・53で計103と記されていたからあまりうまいとは言えない。川奈の富士コースなどをまわっている。城陽カントリークラブのオフィシャルハンディキャップは28だった。吉川は気さくな人柄だったようで、文壇のほかにも、学者、思想家、芸術家、商人、職人と交友は広い。

骨肉愛に対する意識は没落時を家族の団結で乗り切ったことも影響していると思うが、家庭を大事にしている。初めの不幸な結婚を経て、大きく年の離れた賢夫人・文子との結婚によって、吉川の仕事は順調に伸びていく。記念館の資料では正確なことはわからないが、年齢差は30歳近くはあったのではないだろうか。和やかで幸せな家族をきずいていたことは、家族の写真と取材ノートをみると、大きな字である。円満な家庭を喜んでいたのは、「子らは皆よき母もてり この父は机ぐらしのそとにあれども」という歌も詠んでいることでもわかる。

ある賞の賞金を基金に始めた吉川英治文学賞吉川英治文化賞吉川英治文学新人賞が、吉川の名前を冠した小である。文学賞は、初回は松本清張、それから山岡荘八川口松太郎、柴田練三郎、源氏三鶏太、司馬遼太郎水上勉新田次郎城山三郎五木寛之池波正太郎などそうそうたる作家の名前が並んでいる。42回目は「中原の虹」の浅田次郎だった。新人賞は山口洋子高橋克彦伊集院静浅田次郎などの名前がみえる。文化賞は福祉関係の功労者を対象としているようで、知っている名前では宮城まり子があった。

「外国物を翻訳したり、江戸文学を焼き直すよりも、自分の考えのほうが、遥かに、すぐれていると、僕は、つよい自惚れを持っている」と吉川は語っている。正史は信用ならない、と言っている吉川は、自分の頭でどこまでも考える人だったようだ。

「逆境に育ち、特に学問する時とか教養に暮らす年時などは持たなかった為に、常に、接する者から必ず何か一事学び取るということ忘れない習性を備えていた。---彼が学んだ人は、ひとり信長ばかりでない。どんな凡下な者でも、つまらなさそうな人間からでも---我れ以外みな我が師也。としているおだった」。これは新書太閤記にある秀吉を描いた部分だが、これは吉川英治自身でもあった。

「夫婦の成功は、人生の勝利です。人間の幸福なんていうものは、この辺の所が、最高なものではないでしょうか。、、、帰するとことは、平凡なものです」という感慨が吉川にはあった。仕事に恵まれ、よく伴侶に恵まれ、骨肉愛を確かめた吉川英治の人生は、本人にとって満足のゆくものだったに違いない。