宮脇俊三と鉄道紀行展(世田谷文学館)

徳富蘆花が住んだことで駅の名前がついた京王線蘆花公園駅から歩いて5分のところに、常に優れた企画展を開催している世田谷文学館がある。1995年に開館し、初代の館長は「日本人の自伝」などの著作を持つ文学者、批評家である佐伯彰一氏である。萩原朔太郎江戸川乱歩林芙美子北杜夫、などの文学者、そして作家の住む町として有名な成城学園は、野上弥生子大岡昇平福永武彦平塚雷鳥大江健三郎柳田国男水上勉北原白秋西条八十、などが住んでいる。確かに世田谷に文学館ができるのは理由があると納得する。

さて、この文学館が「没後5年 宮脇俊三と鉄道紀行展」をやっているので、訪ねてみた。宮脇俊三(1926−2003年)は鉄道紀行を文芸の新ジャンルとして定着させた人物である。もともとは中央公論の編集長などを歴任したが、51歳で常務取締役を自ら退く。50歳で国鉄全線2万キロを達成し虚無感に襲われたのだ。退職後最初に書いた「時刻表2万キロ」が第5回日本ノンフィクション賞を受賞し、以後鉄道三昧の日々と執筆の日々が延々と続く。54歳では「時刻表昭和史」が交通図書賞を受賞、58歳、「殺意の風景」で泉鏡花文学賞、65歳、「韓国・サハリン 鉄道紀行」で第1回JTB紀行文学大賞、72歳では鉄道紀行を文芸のジャンルとして確立したとの理由で菊池寛賞を受賞している。76歳で亡くなったが、戒名は「鉄道院周遊俊妙居士」といいういかにもというものだった。
鉄道紀行文学という系譜で見ると、「阿房列車」を書いた内田百罒(1889生まれ)、そして「南蛮阿房第二列車」を書いた阿川弘之1920年生まれ)、そしてこの宮脇俊三の活躍で、このジャンルが確立する。「時刻表2万キロ」はエッセイやノンフィクションの主題と描き方の間口を大きく広がるきっかけをつくり、奥本大三郎「虫の宇宙誌」や藤森照信「建築探偵の冒険・東京編」などにつながっていく。傍目には酔狂とも映る特異な嗜好や趣味に偏して、なおかつ人を楽しまさせる文章を書けたのだ。

この宮脇俊三は仕事人としても多くの輝けるヒットを飛ばしている。40歳で手がけた「日本の歴史」の第一巻「神話から歴史へ」は100万部の大ヒットとなった。「世界の歴史」16巻シリーズの企画を担当し大いに売れる、会田雄次「アーロン収容所」などから始まった「中公新書」の刊行、そして北杜夫の「ドクトルマンボウ」シリーズのなどのベストセラーなどその編集者としてのセンスは只者ではない。しかし、「周りに配慮を忘れない穏やかな人柄」が同僚などの見方である。北杜夫は隣に引っ越してきている。二人が垣根越しに話をしている愉快な写真が掲示されていて、ほほえましい。

父は衆議院議員だったこともあり少年時代は国鉄の無料パスを使って旅をしたというが、父の落選に伴ってこの特権はなくなってしまう。東大理学部地質学科に入学するが、文学部西洋史学科に転部する。そして就職活動で葉、日本交通公社中央公論にパスをする。交通公社では雑誌「旅」の編集を考えたというから、この人の旅行、紀行、という芯は固い。宮脇は「時刻表は百年を越える日本鉄道史上に作り成された大交響曲である」と述べている。

「注文が多く、東奔西走の日々」と本人が言っていたが、昭和56年から58年までの3年間のスケジュール表がある。ほとんど休みなく日本全国を駆け巡る宮脇の姿が思い浮かぶ過酷な日程表だ。

取材ノートを展示しているコーナーがある。Campusなどの小型ノートがほとんどで、表紙に日付と場所を記してある。私も旅のメモ帳としていろいろ試してみたのだが、落ち着いたのはCampusの100円ノートだから、宮脇と同じだと同志に会った気持がした。「シベリア鉄道9400キロ」「インド鉄道旅行」「アンデスの高山列車」「オーストラリア大陸横断」「「中国火車旅行」「ヨーロッパ鉄道旅行」「時刻表のない旅--フィリピン」など海外の鉄道紀行も多いが、このメモ張には、細かく、きれいに、そして分単位で几帳面に書き記していて驚いた。メモ帳のメーカーは、Silkstuff、handy pick、appointment、campusなどの小さなものが主流だ。

タテ40センチ、ヨコ1メートルの、200万分の一の白地図があった。旅から帰ってくるたびに、やや太めのマジックペンで灰色の線の上を赤く塗っていたそうだ。大学卒業後、一生かけて世界のすべての国を旅行しようと、私は大きな世界白地図を買って壁に貼り、足を踏み入れた国を赤く塗っていたことを思い出した。当時はソ連が地図の中心に大きな場所を占めており、モスクワだけでもとにかく行き、私の地図のソ連の部分を一気に塗りたいと切望していた。その国に一歩でも足を踏み入れたらその国は全部赤で塗っていいという原則をだったからだ。まあ、この人もわたしと同じ人種だと親近感がわいてくる。

名刺の肩書は、「日本文芸家協会会員」と「日本ペンクラブ会員」の二つだった。

旅行の携行品。時刻表、地図1(25万分の1.車窓用)、地図2(2万5千分の1。歩いてみたいところ用)、歴史の本(文庫版の県別史)、ガイドブック、洗濯用ロープ(二日にいちいちはバス付きのホテルに泊まり下着を洗濯!)、針と糸、保健薬一式(ビタミンCや葉緑素)、痔の座薬(長いこと座っているので用心のため)、虫よけスプレー(史跡にはやぶ蚊が多い)、ウイスキーのポケット瓶(寝酒用)、スリッパ(車中用)、帽子、空気枕(車中の居眠り用)、小バッグ(丸えると手の中に入るくらいの薄地のもの)、メモ帳。カメラは原則として携行しない。旅の様子が目に見えるようだ。旅の達人の旅行道具には興味津津。

書斎。原稿、Bの鉛筆、青鉛筆、定規、消しゴムかすを払うための製図用羽ぼうき、印刷物を量るスケール、万年筆、カラーペン、、、。


充実した優れた企画展だった。別冊太陽「宮脇俊三」や本人の書いたエッセイなどを買い込んで、少し読んでみた。北杜夫江国滋阿川弘之、堀淳一などの文庫の解説など実にうまい。熟達した書き手である。あたたかいまなざしを感じる文章だ。
阿房列車」の冒頭を少し読んでみた。文章の面白さに引き込まれる。また入手した内田百罒の本の中に、1日駅長をやったときのことが書いてあった。百罒は訓示で「駅長にさからったものは馘首する」といたという。こういうユーモアは、宮脇俊三にも引き継がれているようだ。

宮脇俊三は、つとめをしながら趣味を趣味として楽しみ、51歳から徹底的にその趣味の中に埋没し、すぐれた作品を40冊以上上梓した。この生き方も一つのモデルである。