新田次郎コーナー、藤原咲平コーナー(諏訪市図書館)

k-hisatune2008-09-14

諏訪市図書館の2階にある新田次郎コーナー。新田次郎(1912−1980年)は、「国家の品格」の藤原正彦の父である。この新田次郎ペンネームだが、この人の生まれは諏訪町大字上諏訪角間新田で生まれたことと、次男坊であったことを合わせて、新田(シンデン)をニッタと読ませて、新田次郎になった。ペンネームのつけかたの一つの典型である。自身の家の屋号を用いた堺屋太一、出身地の名前をつけた石ノ森章太郎など、こういうつけ方は多い。新田次郎の本名は藤原寛人。

18歳で無線電信講習所(現在の電通大)に入り、卒業後20歳で中央気象台(気象庁)に入台する。そして直後の昭和7年から12年まで富士山観測所で仕事をする。31歳、満州国中央気象台課長となるが終戦でソ連軍の捕虜となる。妻ていは、3人の子供を連れて帰国。解放された後、34歳で気象台に復職するが、39歳の時に妻が「流れる星は生きている」という本を書きベストセラーになる。この刺激が新田次郎を誕生させる。「強力伝」を書いたが、これが43歳で出版され、翌年にいきなり直木賞を受賞する。その後、「蒼氷」など山岳小説、推理小説を書いていく。51歳で測器課長に昇進し、富士山気象レーダーの建設の大役を成功させる。

54歳で気象台を退職し、筆一本の生活に入り、「八甲田山死の彷徨」、「武田信玄」など多くの名作を生む。退職後13年後の67歳のときに心筋梗塞で逝去。

山に題材を取った小説が多い新田次郎は、山男だった。その遺品が展示されている。姿の美しいピッケル、高級な登山靴、品のいい帽子、そして登山服を注文するための詳細なスケッチなどが目に入る。随分といい品物を持っていたのだなあと思っていたら、妻の藤原ていが、「新田さんは、平常の服装はむとんじゃくであったが、山の装備は最上のものを用いた」と書いている文章を添えてあったので納得した。

取材ノートは、私の100円ノートと同じく小型のものが中心だが、キティちゃんのhappy noteも使っていたのは愉快である。

新田次郎関係の書棚がある。新田次郎本人の著作、全集。新田次郎を書いた関連本、そして家族の著作というコーナーもある。
妻の藤原ていは「絆」、「生きる」、「たけき流氷」、「旅路」、「あなた、強く生きなさい」、「流れる星は生きている」。
息子の藤原正彦は数学者としての著作や、エッセイが多い。
娘の藤原咲子は、「父への恋文」、「母への詫び状」。
正彦の妻の藤原美子は、「子育てより面白いものが他にあるだろうか」。

先日、日本ペンクラブの例会に初めて出席したときに、家族4人が会員であるとしてこの藤原家を紹介していたことを思い出した。文筆の才能は遺伝か、それとも環境か。藤原正彦の「若き数学者のアメリカ」という処女作は、この父親の推奨で生まれている。

新田次郎の蔵書の一部もある。「遠近の山」、「山との対話」、「山の足音」、「歓びの山 哀しみの山」、山の天辺」、「単独行者の気憶」、「孤独なザイル」、「アルプスの山旅」、「上高地の大将」、など山に関する本が多い。

本名の運輸技官・藤原寛人の名前で、30年勤続の表彰状をもらっている。息子の藤原正彦のエッセイを読むと、直接はもらさなかったらしいが大学出の学士との待遇の差に心を傷つけられていたようだが、厳しい公の勤務の傍ら小説を書くというスタイルも長く続けたことに尊敬の念を覚える。
記念館ができるほどの人物の実像は、妻、子供など日常生活を一緒に送った家族の証言が一番信用が置ける。そういった書物は、記念館という現場で手に入ることが多い。新田次郎の小説とともに、息子のエッセイの中にでてくる人間・新田次郎をもういちど意識して読みたい。

再現された書斎は、8畳で、炬燵つ机と座椅子の組み合わせである。和服姿のやや小太りの穏やかな写真も展示されている。

  如月の すわ湖思えばなつかしや 下駄スケートの緒のゆるみを(新田次郎

下駄スケートという言葉は初耳だったが、島木赤彦の記念館のある諏訪湖博物館の入口に「下駄スケート発祥の地」というプレートとそれを楽しむ子供たちの彫刻があった。

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偶然にも、同じ部屋に藤原咲平コーナーがあり、こちらも見物する。

藤原咲平(1884−1950年)は、新田次郎と同じ角間新田で、28年前に生まれている。同じ藤原姓であるから、何かしら縁があるのだろう。
こちらは一高から東京帝大理科大学物理学科、大学院を出て、27歳で中央気象台に入台している。31歳、理学博士3。36歳、東京帝大講師。40歳、東京帝大教授を兼任。57歳、中央気象台長。
雲の研究者で、天気予報の現場にあって、「お天気博士」として親しまれた。日本で初めてグライダーを飛ばした人物でもある。
天気予報者への心がけとして「天気予報は七分の学理に三分の直観」と説いた。

この人の次の歌はいい。

 草に寝て 青空みれば 天と地と我 その外に何物もなし


新田次郎も、藤原咲平も、そして近代文化人は、必ずその時々の心境や感慨を歌に詠んでいる。長い歴史を持つこの歌の伝統は日本独特の優れた文化であると改めて感じた。