「小林秀雄の恵み」(橋本治)という名著を読む

橋本治(1948年生まれ)という作家の本は読んだことがなかった。東大駒場祭での「とめてくれるな、おっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」のポスターや小説「桃尻娘」など、異色の活動を続けている人といういことくらいした知らなかった。
今回、「小林秀雄の恵み」(新潮社)という、小林秀雄(1902−1983年)を俎上に上げた本格評論を読んで今までの印象を一変した。小林秀雄といえば私たちの世代のだれもが知っている文芸評論の神様で、入学試験問題はこの人の難解な文章を題材に出されることが多く、畏敬の対象であった。小林秀雄の冴えた筆にかかるとどのような権威も丸裸にされてしまうという恐怖に近い感覚を持った同世代の知識人は多かっただろう。

橋本治は、小林秀雄の凄味と切り開いた地平を高く評価した上で、小林の秀雄の文章が難解なのはつじつまが合っていないからであるという申し立てを慎重に、しかし大胆に行っている。この本は常に異議を申し立てる側であった神・小林秀雄に対して、真正面から、かつ丁寧に異議を唱える志の高い一書である。

多くの書評がそうであるように、評論という営為は、対象を語りながら実は自らを語るということを目的としている、と言ってよいだろう。小林秀雄の多くの優れた仕事にもそういった面があり、私たちは彼が取り上げた偉大な人物を語る本人の考えを堪能してきた。兼好、西行宣長という日本史上の偉大な先達の姿を料理する冴えた腕と技に惚れぼれとした人が多い時代とは何だったのか、これが橋本治の問いである。そして橋本治もまた小林秀雄をそうであったように、戦後世代としての自己を開陳していく。

本居宣長」という書物小林秀雄が63歳から書き始めて、単行本になったのが75歳のときであり、小林秀雄のライフワークとして見事な完成を見せ、輝ける名声をさらに高めた名著である、ということになっている。それは誰も疑わなかった。しかし橋本治は、この書は本居宣長を「学問する人」という片面しか見ていないと述べている。「源氏物語」の世界を憧憬しそれを生んだ土壌のルーツを求め「古事記」にすすむという道をたどる宣長の本質、つまり本(モト)は「和歌を詠む人」であり、学問は末(スエ)で従たる位置を占めている。だから誠実な小林秀雄本居宣長を全的に認識できずに難渋しており、それが名著と言われている「本居宣長」を難解な作品にしている。宣長の二つの墓を証拠にもして「和歌の宣長」を橋本治は実証している。つまり橋本治小林秀雄本居宣長という人物を見誤ったと断定しているのだ。

連歌、俳句、謡曲浄瑠璃、小歌、童謡、音曲の類の本(モト)である和歌を宣長は最上位においていた。それは日本文化の本来のあり方に自分(宣長)はのっとっているという自負があるということである。和歌のテーマは日本人が持ってきた変わらぬ不動のテーマである。和歌のテーマは「物のあはれ」を詠むことであり、それは「人の情(ココロ)の、事にふれて感(ウゴ)く」ということに尽きる。論理の人である小林秀雄は、「全的な認識」という言葉を持ち出して複雑にしてしまう。橋本治は、「物のあはれ」を小林秀雄は頭でわかろうとしたため、本当はわかっていなかったのでないかという疑問を発している。

学問する人である小林秀雄は、自らの生涯の価値を決定づける作品である「本居宣長」を63歳から書き始める。兼好にもベルグソンにも物足らない。長い年月をかけて探し出したのは、本居宣長という大きな対象だった。この宣長を十全に書くことによって小林秀雄は本当の小林秀雄をになれるはずだった。宣長小林秀雄は一致もあったが、ズレも大きい。自身の遺書である「本居宣長」に書かれた本居宣長は、宣長の一面である「学問の人」小林秀雄そのものとなった。

日本という国は、常に外国から異様な情熱で学んできた。古くは中国、近代に入って欧州、現代はアメリカがその畏敬の対象であった。宣長が生きた江戸時代もそうであったし、明治以降特にその傾向が顕著に出ている。しかし日本の国柄を極めるという一方の営為がなければ、精神的崩壊が待っている。それを本居宣長は、神話として日本人が歯牙にかけなかった「古事記」に求めた。そしてその答えは確実にあった。宣長はそのような歴史と土壌の中で生まれ死んでいくことを理解したのである。宣長の仮想敵は、「漢意」(カラゴコロ)だった。この敵を相手にする中で本来の「日本」を掘り出していく。これが儒教仏教を排撃し、反体制の尊王攘夷思想を生んで行く。

小林秀雄は日本の近代の入口を求めて、近世を旅する。それは武者達が闊歩する戦国時代から始まるのだが、その風潮は「下剋上」という言葉で表わされる。大槻文彦の「大言海」には、「此語、でもくらしいトモ解スベシ」とある。とすれば民主主義を標榜する近代は、実は近世から始まるともいえるのである。近世思想のトップランナーと小林が位置づける中江藤樹は、庶民が「学問する権利」を発見する。それは、熊沢蕃山、契沖、伊藤仁斎荻生徂徠、そして本居宣長に受け継がれていく。私学の中江藤樹に対して江戸時代の官学には林羅山がいる。国学という民間学に対し、体制を護る官学とは朱子学儒教である。橋本治は、世の中から崇められる神様・小林秀雄は私学に興味を持ったが、その本質は官学であると言っている。小林秀雄林羅山であるという衝撃を橋本治は用意する。立ち位置と言説の分裂がおこっているというのだ。

小林秀雄という山は大きな存在感に満ちている。一応は文芸評論家という肩書で紹介されているが、その仕事をなぞってみるととてもそのような表現で説明できる人物ではない。文芸にとどまらず、「モオツアルト」などの音楽、「ゴッホの手紙」などの絵画、などあらゆるジャンルで一流の活動をしている。音楽絵画、文学を同列に置いたマルチメディア評論家ということになる。「平家物語」の「宇治川先陣」の流麗な文章を小林秀雄は「大音楽」と言っている。文章から音楽が聞こえるというのである。「無常ということ」はこれまた有名な本でよく読まれたのだが、戦争状態は無常であり、常なるものは歴史であり、その遺産としての古典であり、古典を読もうというように解釈できると橋本治はいう。戦争時の小林秀雄の講演では、戦争のばかばかしさを前提にした論陣を張っており反戦的ととられてもおかしくない主張をしているが、危険人物とはみなされていない。誰からも理解されないために安全であるという奇妙な役どころを上手に演じている。

近世という時代は非合理な神を存在させながら、一方を合理性で支配するという時代だった。神は神として置いといて、しかしそれとは関係なく実生活をまわしていく、そういう時代だった。それは日本思想のゴールであり、本質的な態度だった。自分は兼好法師ではないことに気がついた小林秀雄は、自身をむき出しにして己を求める僧侶・西行に行く。仏教は門口のみ用意しあとは自由という宗教であり、仏はただ伴走するのみであり、ゴールへ導いてはくれない。神が空白として存在していた日本人は、「桜」を代入した。桜は、神であると同時に自分自身でもある。だから西行はその空白を自分でうめ続けた自助努力と自己達成の人であって、近代人でもあるということになる。芭蕉は自分を問題にしないで、俳句の中で、水の音、最上川、夏草、を神にしたてあげる。その強さは日本人にとっては当たり前のことだったのである。

「しき嶋の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花」という本居宣長の歌は、私の本質は桜であるという意味でありそれ以上ではない。二つの墓のうち私的な墓にはなにも書くなと命じた宣長は、生業でああった医者でもなき、ただ本居宣長であるだけでいい、それ以外の何者でも自分はないということを示している。森鴎外の墓にも「森林太郎墓」とだけある。また、原敬も「原敬墓」である。国学者でも文学者でも政治家でもなく、自分自身であるということなのが古道なのだろうか。

「本ヲオイテ、末ヲモトメンヤ」という宣長は、当然のことながら漢意に汚染された日本書紀ではなく、「古事記」へ向う。しかし、小林秀雄は、「古事記伝」を書いた本居宣長に関心があって、「古事記」そのものには関心がない。小林秀雄は思想よりも、人に関心がある。自分に重ね合わせて生き方を考えているのだろう。

この本の中で橋本治は、しだいに小林秀雄の正体を丁寧に薄皮を剥ぐように見せていく。その手腕はなみたいていの腕ではない。小林秀雄本人が小林秀雄を容赦なく批評しているという感覚を持った。ある時代を風靡した小林秀雄という神は、時代を通り抜けるトンネルのような役割を持っていたと橋本はいう。トンネルを抜ければ掘った人は忘れられる。そういう存在である。

この書を書き終えた時点で、橋本治中江藤樹以降の系譜を学ぼうとするが、それをやってはいない。私は橋本治のこの考えに深く共感する。そして本居宣長という存在に大きな関心を持った。
橋本治にとって小林秀雄が恵みであったように、橋本治も私の「恵み」であり、私のトンネルであった。

(ここまで一気に書きなぐってしまったが、この感想はもっと整理してきちんと書きあげたい、そういう名著だと思う)