「九鬼と天心」(北 康利)

「九鬼と天心」(PHP)は、評伝作家として精力的に執筆を続ける北康利の最新作である。
この作家の本は、山本七平賞を受賞したデビュー作「白州次郎 占領を背負った男」以来、「福沢諭吉」や「松下幸之助」などの評伝も読んできた。

九鬼と天心

九鬼隆一は1850年生まれで、福沢諭吉の慶応に入学し、その翌年に文部省に入り栄進し、文部行政に絶大な影響を与えて、日本の古美術調査保存や美術教育に力を注ぎ、男爵に列せられた。
岡倉天心は1962年生まれで、フェノロサの影響で日本美術に傾倒し、文部省で九鬼のもとで美術行政に関わり、東京美術学校の設立、日本美術院の創設などを行い、横山大観などの優れた日本画家の一群を育てた。

この本は、日本の美の伝統を守ったその盟友二人の愛憎の物語である。

時代を担う人材の登竜門であった慶応に学んだ九鬼は、不世出の教育者であった福沢諭吉が唯一生涯許さなかった弟子でもあった。文部行政に深く関わる中から、当時の日本は上からの改革でなくては列強に飲み込まれてしまうという危機感が、恩師を裏切る形になってしまう。「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」と言われた福沢が「日本人は欧米に遅れている」と説き急速な近代化を実現しようとしたのに対し、九鬼は「文部省の九鬼か、九鬼の文部省か」と言われたほどの実力者になり、「従来の日本にも素晴らしいところはあう」と主張し、日本に誇りを取り戻そうと考えた。そして私学の弾圧に乗り出し官学を重視する路線をとる。慶応にとって九鬼はユダであった。九鬼は総理大臣にも文部大臣にもならなかったが、世評は高かった。「東京日日新聞」(1887年8月2日)は各界の有力者ランキングを発表している。それによると、教育家では3位、美術奨励家では2位、物産奨励家では5位に入っている。

岡倉天心は九鬼より12歳年下の英才で文部省で上司である九鬼に私淑し、九鬼の考え方を美術の世界に鮮やかに展開していく。後年「九鬼のある所必ず天心あり、天心ある所必ず九鬼あり」と言われるほどの同志となっていく。天心の書斎で「第一 四十歳にて九鬼内閣の文部大臣となる 第二 五十にして貨殖に志す 第三 五十五にして寂す」という人生計画らしきメモを見た人がいる。天心の志を知るメ資料でもあるが、一方で天心の九鬼に対する傾倒ぶりがうかがわれる。「日本美術は中国の模倣ではない」と強く思った天心は日本美術の再興に生涯をかけていく。東京美術学校の校長を追われた天心は、辞職後わずか3ヶ月で日本美術院を創設し、日本美術の滔々とした豊かな流れをつくりだしていく。

九鬼と天心の民族主義的思想が、当時の欧米化という圧倒的な流れの中で、日本の文化と誇りをかろうじて守ったということもいえるのだ。ここは今日も私たちが背負っている課題でもある。

この二人は、時代を読む洞察力、目だとうとする性癖、そして好色であったことなど、共通点が多い。漁色家であった九鬼と自分の欲望を抑えることができなかった天心は、似たもの同士だった。それが九鬼の妻と天心との不倫騒動に発展していくとは皮肉なものである。

九鬼の息子であった周造は、実は天心の子ではないかと疑われたが、後に哲学者となって「粋の構造」という名著を書く。しかしこの周造も哲学者でありながら、「ドン・ジュアンの血の幾しずく身のうちに 流るることを恥かしとせず」という歌を詠んでいる。
やはり堂々たる漁色家であった。血は争えないものである。

また、九鬼と天心の二人の性格はよく似ている。時代に対する感覚が鋭いこと、果断であること、人に影響を与える教育者的資質に富んでいること、表の顔と裏の顔があることなどである。どちらも成功することに生きがいを感じる人、動機づける人、である。

この本は「明治のドン・ジュアン」という副題(ドン・ジュアンは、ドン・ファンのこと)を持っているが、その部分は描き切れていないように感じる。北康利の書物には時折、対象とした人物に対する感想や溜息が書かれていて、本音が垣間見えることがあるが、幾分モラリスト的雰囲気があるようで、好色の部分には全般に評価が辛い。それが筆致にあらわれている。小説家ではないし、男を書くことがテーマなので女や恋愛を描くことは苦手だと思うが、どうだろう。

北は、最近まで証券会社勤務だったが、専門の会計分野の専門職大学院客員教授を務めながら、本格的に評伝を書くことを決心したようである。「白州次郎」を書いたときには、故郷・兵庫県三田(さんだ)の郷土史家という肩書だった。白州次郎も、今回の九鬼隆一もそういう郷土史研究の中から浮かび上がったテーマであろう。
著者にとって郷土史は自分自身を深堀することでもあるから、調べ、書く必然があり、それが出来映えにつながっているようである。

北康利は、郷土史という汲めども尽きぬ泉を掘り当てたようである。その独自の泉を大事にして、近代日本の人物を書くことを通じて、日本の姿を描いてもらいたい。