慶応義塾創立150周年記念「福沢諭吉展」(国立博物館)

k-hisatune2009-01-11

上野の国立博物館表慶館で開催されている慶応義塾創立150周年を記念した福沢諭吉展を見てきた。思えば、2005年の正月から意識して始めた私の「人物記念館の旅」は、この中津の福沢記念館から始まったから、再開にふさわしいかもしれない。

表慶館は、大正天皇(1879−1926)の御成婚を記念して建てられた、明治末期の洋風建築を代表する建物である。石と煉瓦造りの2階建てで、屋根は緑色の銅板で葺いた雰囲気のいい建物だ。慶びを表すという意味で表慶館と名付けられた。福沢諭吉展を開催するにふさわしい壮麗な建築だ。

さて、現在の慶応の安西塾長のあいさつでは、「試みに見よ、古来文明の進歩、その初は皆いわゆる異端妄説に起らざるものなし」という福沢の言葉から始まっている。1858年に23歳だった福沢は慶応義塾を創立し、1901年に68歳で亡くなくなるまで、獅子奮迅の活躍をする。今回の展覧会のキーワードは「異端」と「先導」である。安西塾長は福沢を知・情・意の総合力に優れた偉大な常識家として福沢を見ている。

この展覧は、第一部「あゆみだす身体」、第二部「かたりあう人間(じんかん)」、第三部「ふかめゆく智徳」、第四部「きりひらく実業」、第五部「わかちあう公」、第六部「ひろげゆく世界」、第七部「たしかめる共感」という七部構成になっている。福沢のもっとも身近な自身の身体、家族から始まって、男女、同志、慶応義塾、経済、政府、演説、時事新報、世界とアジア、そして福沢山脈を形成した門下生の美術コレクションというように、影響が地理的拡大に及ぶ様と後世という時間軸で影響が及んでいく様を描いている。影響が広く、長く、水面の波紋のように広がっていくというコンセプトだろう。

「あゆみだす身体」。4時半起床(冬は5時半)で10時には寝る福沢が散歩党を起こすための銅鑼と打木が展示されている。毎日広尾、目黒、渋谷と6キロを歩いた。また、肖像画が30種類以上残っているように、福沢は無類の写真好きだった。
福沢は身体を人間第一等の宝として鍛えていた。それを示す言葉が二つあった。
「身体壮健精神活発」と「先成獣身而後養人心」である。後は、「まずじゅうしんをなしてのちじんしんをやしなう」と読む。

「かたりあう人間(じんかん)」。銀座に交詢社をつくり人間交際(society)を推進したが、交詢社とは「知識を交換し、世務を諮詢する」社会教育の場という意味だということがわかった。


「ふかめゆく知徳」。徳とは「勉強によって智を獲得するかたわら、知らず知らずのうちに備えていく気品」だそうだ。慶応の25年史には、「西洋の実学」という言葉があり、実学に「サイヤンス」というルビをふっている。科学を実践的学問、すなわち実学と訳しているのは興味深い。慶応義塾では、先生と弟子ではなく社会開拓する志の実現のため協同して支え合う仲間(社中)であり、上下関係はないといことになる。福沢だけが先生と呼ばれ、あとは全員が君づけなのはこういった考えにもとづいている。亡くなる年の元旦にに書いた「独立自尊迎新世紀」は雄渾な書である。福沢の葬儀は1万5千人が弔ったが、女性を尊重する論陣を張ったためか女性が多かったとのことだ。

「きりひらく実業」。中央における経済界の福沢山脈(荘田平五郎・朝吹英二・中上川彦次郎・池田成彬・福沢桃介・藤原銀次郎・小林一三・松永安佐エ門ら)と並んで「もう一つの福沢山脈」として地方で活躍した慶応義塾出身者の活躍を展示しているのは、いい企画だった。福沢の影響力は地方の産業にも深く及んでいたということがわかる。

「わかちあう公」。「言海」が完成した祝宴の招待状に、招待員総代として「伊藤伯」「福沢先生」とあったのを自ら福沢先生の文字を抹消して送り返したという逸話の本物があった。また、「瘦せ我慢の説」で幕臣でありながら新政府から爵位をもらった勝海舟を非難した書簡に対して、勝の返事もある。「行蔵は我に存す 毀誉は他人の主張 我に与からず 我に関せずと存候」というよく知られた言葉があった。第一回帝国議会の想像図があり、定員300のうち、慶応義塾出身者は25名だったそうだ。今はどうだろう、もっと多いかも知れない。

「ひらけゆく世界」。展示されていた「西航手帳」は、帰国後の多くの著作のもととなった手帳。「中津留別の書」(1870年)は、福沢のメッセージのエッセンスが詰まっているとのことなので読まねばならない。「福翁自伝」の最後に、これからやってみたいこととして、「気品」「宗教」「学問」を挙げているのも興味深い。

「たしかめる共感」。門下生による美術コレクションだが、「国の光は美術に発す」という福沢の言葉もあった。絵画や焼き物など多くの美術品が展示されていたが、門下の実業人たちは福沢のこの言葉を聞いていてこれらの美術品を蒐集したのだろう。

福沢記念館は何度も訪れているし、本も読んでいるので、今回はまだ知らなかった逸話などを中心に見て回った。

福沢諭吉の本は折に触れて読み継いでいかなければならないと改めて感じた。この企画展の冊子と「福沢諭吉が生きていたらーー」(諭吉インサイドプロジェクト出版委員会編)などを購入。

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福沢展を観たあと、夕刻には銀座で寺島さんと食事をしながら打ち合わせ。