「六十、七十、洟垂れ小僧 男盛りは百から百から」--平櫛田中

k-hisatune2009-01-24

前から行きたかった小平市平櫛田中彫刻美術館を訪ねた。一橋大学の近くで玉川上水の流れる閑静な住宅街に、2階建て地下1階のモダンな展示館と、自宅だった和風平屋の記念館が併設されている。

この名前は最近の日経新聞の連載でもみたし、さまざまなところで目にしている。すぐれた木彫彫刻家として有名だが、107歳という長寿を全うしたことでもよく話題になる。また、この田中(でんちゅう)さんは、「六十、七十、洟垂れ小僧 男盛りは百から百から」というよく聞く言葉を語った人物でもあった。

平櫛田中(1872−1979年)という名前は、田中という本来の姓を養子に行った平櫛という姓の下につける名前にしたという事情である。

残っている映像で100歳を超えた日常が紹介されていた。彫刻の題材を探すためもあって、ハサミを片手に新聞を切り抜く姿があった。とにかく興味が多岐にわたり、好奇心とバイタリティに溢れた人だったらしいことがわかる。家族の証言によると、早起きで午前2時には起きて、本や新聞を読み、6時から着物を着て洗面、朝食。その後庭での30分間の散歩。午前中は居間で本を読み、手紙を書く。午後は書道。就寝は午後9時、という充実した日常だった。

「田中語録」というような本も編まれているように、この人の言葉はなかなかよかったらしい。
「いま
 やらねば
 いつ
 できる
 わしが
 やらねば
 たれが
 やる」
というやる気が出てくるような心構えの書も観ることができる。

平櫛田中先生百寿祝賀会」という弟子たちが企画した会の案内状があった。その挨拶文の中に「壮者も及ばぬおすこやかにして本年目出度く百歳を迎えられました」という文章が書いてあった。

平櫛田中の代表作として有名なのは、現在国立劇場のロビーに展示されている「鏡獅子」である。全長2メートルを超える作品で、完成までに援助者の事情や戦争などもあり結果的に20年以上の歳月を費やしている。六代目尾上菊五郎の絢爛豪華な舞の姿を木彫りで彫り、その上に色彩をかけたもので、日本彫刻の最高峰と言われる作品である。昭和12年には25日間通い続け、場所を変えながら菊五郎の姿を観察し続けたというエピソードも残っている。菊五郎は「踊りの名人の眼だ」と田中の観察眼を評していた。菊五郎は裸で稽古をしたのだが、まずその姿を彫り、その上に衣装を着けるといった方法でつくっていった。この寄木細工の作品は80歳を超えてやっと完成する。

政府から2億円で譲ってくれと言われたが、それではあの世で菊五郎に合わせる顔がないからといって、永久貸与という寄付にした。現在の価値で60億円だと、学芸員の藤井さんが教えてくれた。昭和33年の院展に出品されたその作品は今は国立劇場で多くの人に感動を与えている。

田中さんの彫刻の方法は、粘土で作った形を石膏でかたどりし、特別の「星取り機」というコンパスで木にうつしとるという工法で、星取り技法と呼ばれた。日本の伝統木彫り彫刻の中に西洋流のやり方を取り入れた手法である。

代表作のひとつ「尋牛」(じんぎゅう)は、山の中に牛をたずね求めていく十牛図の故事からとった作品で、岡倉天心から絶賛された田中の出世作である。日本彫刻会の会長となった天心は田中の心の師となった。ブロンズの「岡倉天心胸像」には尊敬の念を込めて金箔を塗っている。天心の口癖は「芸術は理想の表現である」だたt。

彩色豊かな「源頼朝像」、そして「良寛和尚」、月琴」(陶淵明)、「聖徳太子像」、「聖観世音」、「降魔」、「気楽坊」、「釣隠」、「などの名品を見て回る。仏教説話や中国の故事などを題材とした精神性の高い作品が多い。木彫りは自然な感じがとても気分を落ち着かせる。

年表を眺めていると、72歳で東京美術学校の教授になり、77歳で東京芸術大学の教授。そして93歳で名誉教授、という不思議な肩書と年齢の関係がみえる。70を超えて母校の教授になり、90歳で文化勲章をもらたtこともあり、その3年後に名誉教授に推薦されたのだろうか。

受付の男性に名刺を渡したら、「先生!」と突然呼ばれて驚いた。この学芸員は高橋憲行さんの「企画塾」の講師をしている人で、私の図解関係の著作を読み込んでいたとのことだ。

併設の記念館は、平櫛田中が98歳でこの地に転居して約10年住んだ家である。堂々たる平屋の日本的家屋だ。98歳の時に書いた書「今やらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」にちなんで、「九十八そう院」という名前をこの家につけていた。入口には、「千寿」という大きな赤い書が掲げてあった。茶室、アトリエ、展示室。坪庭、中庭、庭園。記念館は368.84ヘーベというから100坪以上の広さである。ちなみに展示館は、その約2倍の781.02ヘーベ。総敷地面積は1789.72ヘーベだから、542坪強だ。

記念館の入り口に、巨大な木が立っている。直径1.9メートルで5.5トンの巨木で500年の寿命を持っている。これを含め、向こう30年間は創作活動を続けられるよう原木を用意してあった。ということは、130歳まで仕事の予定があったということになる。
それを証明するような逸話もあった。同じく天心の薫陶を受けた日本画横山大観、地唄舞の武原はん、そして丸木スマの彫刻をつくろうとしていた。

本間正義氏が、「確か安井曾太郎画伯の描いた「横山大観像」が展示してあり、先生はその前にとまって、じっと見ておられたたが、いきなり、「先生もうしばらくおまち下さい。きっとそのうちに作りますから」といわれた。」と回想している。