「1909年生まれの作家たち」−−松本清張記念館再訪

k-hisatune2009-02-21

北九州市小倉の松本清張記念館で「1909年生まれの作家たち」という企画展が行われている。松本清張は1909年生まれだから今年は生誕100周年にあたる。

久しぶりに訪問する気になったのは、「1909年生まれの作家たち」という企画に興味を惹かれたからだ。中島敦太宰治大岡昇平埴谷雄高、そして松本清張という並べれた作家たちの生きた時代に興味を持った。

1909年という年は、伊藤博文が朝鮮で暗殺された年であり、文学誌スバルが創刊された年でもある。年譜をみると、彼らの少年時代は大正デモクラシーの時代で、自由主義教育、大正教養主義の盛んな時期で、教育の現場では「綴り方」が行われていた。

埴谷雄高の1年から5年までの通信簿が展示してあった。修身、国語、から始まって歌唱、手工などすべてが「全甲」だった。国語の項目を覗くと「話し方、読み方、綴り方、書き方」になっていた。
大岡は小林秀雄に心酔し個人授業を受けているが、青年時代は、清張のみ高等小学校を出て就職している。早熟の中島は東京帝大を出て33歳で亡くなっている。大岡は京都帝大を出て国民新聞、帝国酸素、川崎重工を経て出征し、新夕刊新聞、フランス映画輸出入組合に職を得ている。

戦争が始まった昭和16年、彼らは32歳。太宰は胸を患い徴用免除、埴谷は結核、清張は朝鮮で衛生兵、大岡は暗号手としてフィリッピンに出征している。清張と大岡が会社勤めをしたのは、出征後にも手当てがでることが理由だった。

埴谷雄高は「死霊」、太宰は「人間失格」、中島は「山月記」、大岡は「武蔵野夫人」などの代表作がある。
「群像」を舞台とした大岡昇平の「松本清張批判――常識的文学論と清張の「大岡昇平氏のロマンティックな裁断」という論争もあった。

この同年生まれの5人の作家の全集が並べてあった。中島は3巻、太宰は12巻、埴谷は19巻、大岡は23巻、そして清張は実に66巻と圧倒的な仕事量だった。(それそれ別巻がある)

5人の年表を並べて掲示してあった。中島は33歳で「山月記」、34歳で没しているが、死後「李陵」が発表された。太宰は、35歳で「津軽」を刊行。大岡は39歳で「俘虜記」。埴谷は39歳で「死霊」。そして松本清張は44歳で「小倉日記伝」で芥川賞を受賞して世に出ている。清張はこの中でも遅咲きである。清張は83歳で亡くなるまで膨大な仕事をしたし、88歳で亡くなった埴谷はその直前まで作品を発表している。

全体を眺めてみると、活躍した時代をずいぶんと違う。生年ではなく、没年が重要なのだ。
企画展を見た後、常設展を足早に見てまわった。

この記念館は第56回の菊池寛賞を受賞している。「水準の高い研究誌を刊行しつつ、多彩な企画展を催すなど、健闘しながら開館十年を迎えた」と評価されている。女性館長藤井康栄さんは「作家・松本清張らしく運営することにいたしました」と述べているように、仕事の鬼だった清張にならって年中無休で開いている。