中村雨紅(夕焼け小焼け)・前田真三(写真家)、そして多摩御陵

先日、八王子恩方にある「夕やけ小やけ ふれあいの里」を訪問した。

この日は、まず土方歳三資料館を訪問するが、五代目の当主である土方陽子氏が住んでいて、この人が館長のこの資料館は、第一と第三日曜日の午後しか開館していなかった。また、訪問したい。新撰組関係では、八王子には他にいくつかの施設がある。

中村雨紅展示ホール。

童謡「夕焼け小焼け」の作詞者。
1897年生まれ。東京都多摩郡恩方生まれ。19歳で府立青山師範学校を卒業、21歳の時童話を書き始める。24歳で野口雨情宅を訪問し、以後中村雨紅とペンネームとする。26歳で結婚。文化楽社刊「文化楽譜 あたらしい童謡」に「夕焼け小やけ」が掲載されるが、関東大震災で楽譜は灰になるが、わずか13部残る。それが歌い広げられていった。27歳、日大高等師範部入学、29歳で卒業。厚木高校の教師になる。33歳、春秋社「世界音楽全集」に日本の童謡集に「ねんねのお里」「夕焼け小やけ」が掲載。以後、高校教師を続けながら、童謡の作詞にまい進する。59歳のときに、生誕地に夕焼け小焼けの碑が建つ。75歳で死去。

夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘がなる お手手つないで皆帰ろ 烏と一緒に帰りましょう
子供が帰った後からは まるい大きなお月さま 小鳥が夢を見るころは 空にはきらきら金の星

母さん泣いてるね キュウピイさん ふる里と母と 子供の歌 みんなかあさんあるんだね 私の母さん 魔法の鍵 おとっつあんは僕の村も変わった

この人の作品のタイトルをあげてみる。
お星さん 腹太鼓 ありの兵隊 田舎 十三夜の月 夜道 寒い日、、、。

教師時代に「愚感 そ乃日そ乃日」という日記が残っている。

 頭がよくって 高文や 判検事に なるばかりが 国家へ尽くす 所以でもなければ 亦 格別豪い理(ことわり)でもないのに
 近頃官界へ 首をつっこまなければ 人間でない様な 思ひ違いをして居る奴が ひどく殖えたとは 驚かざるを得ぬ 
 面白い風潮であるが 僕はまだ 宿題になっている

前田真三ギャラリー。


1922年、東京都八王子市恩方生まれ。19歳、府立織染学校(八王子工業高校)を出て、拓殖大学開拓科入学。出征後、26歳、日綿実業に入社し16年間勤務。45歳から写真活動に入る。日本列島縦断撮影3か月など。58歳、朝日広告賞受賞。63歳、毎日出版文化賞特別賞。74歳、勲四等瑞宝章受章。1998年(平成10年)76歳で死去。美瑛町特別功労者賞。1999年、日本写真家協会賞文化振興賞。

北海道美瑛に1987年にオープンした「拓真館」にはライフワークとしてきた「丘」の連作を常設している。2007年には開館20周年を迎えている。「無理をせずに、できることを積み重ねて行こう」という精神でやっていたそうだ。前田真三は、美瑛の風景の素晴らしさに心を打たれたのだろう。本人の写真をみると、随分ハンサムだ。

大正11年生まれで拓殖大学卒業という経歴に興味を持った。私の父は大正12年生まれで拓殖大学に行ったので、ほぼ同じだ。同行した昭和2年生まれの母によると、1年違いでこの前田真三さんんは繰り上げ卒業しているが、父は学徒出陣だったということだ。父は戦争から帰ったあと、復学して卒業している。

青い杉林。ハナモクレン清楚。光る柿。西海落日。菜の花の段々畑。山並遥か。白い滝。、、、、

まるで絵のような写真だという感想を持っていたら、「前田真三ならではの絵画的写真表現」という説明があり、納得した。

帰りに、多摩御陵を見学。

  • 大正天皇 多摩陵(たまのみさぎ)----「多摩の横山」及び武蔵国の中心「多摩(麻・磨)郡」にちなみ、多摩陵と定められた。上円下方。
  • 貞明皇后 多摩東綾(たまのひがしのみさぎ)
  • 昭和天皇 武蔵野陵(むさしののみさぎ)---昭和天皇は御製にも「武蔵野」をよく詠みその自然を愛されたことから「武蔵野陵」と定められた。上円下方。平成元年2月24日の「大葬の礼」「大喪儀」が行われた。87歳。
  • 香淳皇后 武蔵野東陵(むさしのの「ひがしのみさぎ)--平成12年、97歳。