Be Frontier(開拓者たれ)−−エドウィン・ダン記念館

k-hisatune2009-06-29

札幌真駒内にあるエドウィンダン記念館を訪問する。
白壁と薄い緑の屋根の素敵な洋館は、1880年(明治13年)に、エドウィンダン(1848ー1931年)によって北海道開拓使の「牧牛場」の事務所として建てられたもので、1946年に米軍に接収されるまで70年にわたって、北海道の酪農畜産は、この建物を中心に発展した。

初めて聞いた名前だったが、ダンがなした日本近代への貢献に驚いてしまった。米国オハイオ州で生まれたダンは父のもとで牧畜経営を学なんでいたが、25歳の時ケプロン(友人の父)の要請を受けて来日し、北海道開拓使にお傭い外国人として真駒内牧場を建設するなど、6年半にわたって牧畜経営を日本人に教える。日本で初めての去勢、馬の改良などに貢献した。明治6年には明治天皇に農作業をお見せすることになり、明治の元勲達の前で、燕尾服とシルクハットと白手袋で行ったそうだ。その様子を描いた絵が飾ってあった。北海道酪農の父と呼ばれる。

エドウィンダンの言葉として残っている言葉があった。

Be Frontier
Someday I will make This land a Mecca for dairy farming.
(開拓者たれ いつの日にかこの地は酪農のメッカたらむ)

クラーク博士(1826ー1886年)の「Boys Be ambitious」にも似ているが、この二人は20歳の年齢差があるが、親交もあった。

さて、エドウィンダンという人物の面白さは、たまたま来日したことで日本に興味を持って、日本人の妻を迎えた(ツル、ヤマ)だけでなく、さまざまな日本のための仕事をしていることだ。28歳でなくなったツル夫人(子供一人)は鹿鳴館の華として活躍しダンを助けた。ヤマ夫人砥は4人の子供をもうけている。
政府との契約が切れ北海道を離れた後、いったん米国に帰るが、翌年1884年の36歳のときに、駐日米国公使二等書記官として来日し、参事官を経て1893年には公使に昇進している。翌年始まった日清戦争では、講和に奔走して大きな業績をあげている。公使時代の活躍は、「アーネスト・サトウ公使日記」「けんけん録」(陸奥宗光)「ベルギー公使婦人の明治日記」などに出てくる。外交官生活13年。

また、米国内の政変で辞任し、1900年には、新潟県直江津で石油会社を設立している。新潟で石油が出るということを地理で習ったことがあるが、それはこのダン達の仕事だったのだ。この地には今は信越化学の本社がある。この石油事業は1000万円の資本金で運営されていた東洋一の規模だったが、ある事情で日本石油に譲ることになった。その当時の日石の資本金は120万円だたっというから、ダンは日石あるいは日本のエネルギー産業の恩人でもあった。当時の内藤社長の回想録によると、「立つ鳥あとを濁さず」とダンがいうとおりの素晴らしい引き継ぎだったらしい。直江津は今は合併で上越市になっており、ここでダンは「上越市科学工業の祖」ということになっている。この直江津の小学校には、次男のジェームス・ダン(上野音楽学校を卒業)が作曲した校歌が今も歌われている。学校便りのタイトルは今でも「ジェームズ・ダン」だそうだ。石油事業7年。

1912年には、三菱に勤務。長崎造船所でサルベージ事業などに従事している。ここで18年。

「この結婚を一瞬たりとも後悔したことはない」

町村敬貴。ダンの直弟子だった町村金弥(札幌農学校二期生)の息子。町村金吾の息子の町村派代表者のおじさんにあたる。
伊藤一隆。札幌農学校一期生。北海道水産の父。千歳のさけます孵化場、北水協の生みの親。函館帝国水産社長。内村鑑三が弔辞。

子供の世代、孫の世代、そしてひ孫の世代の消息も含めて、この記念館の園家廣子さんから熱心に教えてもらった。この記念館の存在が、エドエウィン・ダンの後の世代を結びつけている。エドウィンダンとその子孫達の物語は、日米関係と日本近代史の交わった興味深いストーリーになるだろう。

ダンにはきちんとした伝記はない。資料として高倉新一郎「エドウィンダン」(日本における半世紀の、、)。エドウィンダン小伝。

オンコ(イチイ)の木の幹から山桜が絡まって咲くという木が庭にある。この物語を象徴する木である。

エドウィンダン記念公園の中に農作業に向かうダン銅像がある。台座にはダンがやった酪農関係の事績が絵として」刻み込まれている。

明治期にはこのような外国人が活躍するが、このエドウィンダンという誠実で人格も素晴らしい人物は、もっと知られるべき人物だと思う。