長岡半太郎記念館=若山牧水資料館(横須賀市)

横須賀市の人物記念館を訪問する。

京浜急行長沢駅から徒歩10分の海沿いに長岡半太郎記念館と若山牧水資料館が建っている。

長岡半太郎(1865-1950年)が、40年間にわたって別荘としたところだ。
17歳で東大理学部理学科に入学し1年を終了した後、西洋の学問である物理学を日本人が極めていけるのかという疑念を持った長岡は一年間休学し、中国古典を読みあさる。そして西洋科学の源泉の多くは、東洋にあると確認し、物理学に戻る。物理学者らしい突き詰め方だ。
31歳で帝国大学理学大学教授になり、61歳で定年退官した後には、大阪帝国大学初代総長、貴族院議員、第一回文化勲章受章、帝国学士院長などの顕職を歴任するなど順風の学者生活を送った。40代初めに東北帝国大学理科大学の創立準備委員になり、物理学の将来を見越した人選を行い、本多光太郎(1870-1954年。KS鋼・東北大総長)を選んでいる。また、大阪大学初代総長時代は、若手研究者の中に湯川秀樹(1907-1981年)や朝永振一郎を入れている。二人とも弟子の仁科芳雄の弟子にあたる。後にノーベル賞候補者の推薦委員になり、外国人を押さざるを得なかったが、「初めて十分な自信を持って、同国人を推薦できる」と湯川を推薦し、湯川秀樹は日本人初の受賞をしている。
記念館の外には、愛用の机と椅子をかたどったものがおかれており、「座ると頭のよくなる長岡博士愛用の鬼の机」という解説がしてあった。この野外机には、来訪した著名な学者達は必ず座らせられたという自慢の机である。太平洋を望みながら、日本の物理学の将来を見据えていたのだろう。帽子や計算尺、そして旅行用の大型トランクなども展示されている。


この記念館は、若山牧水資料館も兼ねていた。資料類はむしろ牧水の方が多い。この地は、漂白の歌人若山牧水(1885-1928年)の妻・喜志子(歌人)の病後療養のために1年間を過ごしたところである。
旅と酒の歌人とも言われた牧水が旅姿で写っている写真をある。和服で尻っぱしょり、股引、巻脚絆、草履、腰に小物入の袋、懐にはメモ帳、そして左手にこうもりと鳥打帽子という姿だった。長男には旅人と名付けている。「156センチ、50キロ、酒量一日二升六合」とあり、酒の上での逸話も多い。生涯の歌は7000といわれているらしいが、44歳で亡くなっているからそう多い方ではない。茂吉は3万首、晶子は5万首だった。

昨年訪れた百草園にも牧水の歌が残っていたように、牧水の歌碑は全国に300ほどある。「摘みてはすて摘みてはすてし野の花の我等があとにとほく続きぬ」という恋人との時間を歌った歌があったが、このときの相手である園田小夜子は子持ちの人妻であったことを知る。

しら鳥は かなしからずや そらの青 海のあをにも そまずただよふ
幾山河 越えさり行かば 寂しさのはてなむ 国ぞ今日も旅行く
白玉の歯にしみとおる 秋の夜の酒は しづかに飲むべかりけり
けふもまた心の鉦をうち鳴らしうち鳴らしつつあくがれてゆく

波打ち際に出ると、夫婦歌碑があった。表は「しら鳥は、、、」という牧水の歌で、裏は、「海越えて鋸山はかすめとも 此処の長浜浪たちやまず」という喜志子の歌が石に刻まれている。


行政の所管する記念館は、本や資料を販売していないところが多い。せっかく訪れたから、自伝や評伝、歌集などを買いたかったが残念。