森下の「芭蕉記念館」と「田河水泡・のらくろ館」を訪問

k-hisatune2009-09-02

思い立って、深川の森下を訪ねる。

みやこという飯屋で深川名物の「深川めし」を楽しむ。深川ではアサリがふんだんにとれ、そのムキ身を、ネギや油揚といっしょに味噌でさっと煮て、炊きたてのどんぶり飯に汁ごとぶっかけて食べていた。この深川めしは、池波正太郎の「鬼平犯科長」にも出ており、その筆致の巧みさで思わず食べてみたい気にさせられたことがある。磯の香りを楽しみながら、湯気をフーフー吹きながら、書き込むのがいいのだそうだ。


そこから歩いて数分の「芭蕉記念館」を訪問する。松尾芭蕉(1644年-1694年)は37歳の時に江戸日本橋から深川芭蕉案に移り住む。そしてここを拠点に新しい俳諧活動を開始する。杜甫西行などが芭蕉の師匠であった。禅のの境地である「わび」「さび」の俳句である。ここでは句会を催すが、「ふるいけや かはずとびこむ 水の音」などの名句が生まれている。

この地から「野ざらし紀行」、「鹿島紀行」、「更級紀行」などの旅に出ている。46歳の時には、芭蕉庵を人に譲り、曽良を伴い東北、北陸を「経て、関西の大垣までの「おくの細道」の旅に出た。地図を眺めてみると、江戸から太平洋岸の松島、出羽三山日本海、そして大垣という徒歩の大旅行である。「おくの細道」は、古くからの歌枕を訪ねる旅だった。詠まれた風景と歴史に残る名句とそれを生んだ俳人を感じる旅だった。その旅でつくった句のいくつかをかいておくが、いずれも人口に膾炙した名句だ。

  • 夏草や 兵どもが ゆめのあと
  • しずかさや 岩にしみいる 蝉の声
  • 五月雨を 集めて早し 最上川
  • 荒波や 佐渡に 横たふ 天の川

晩年の芭蕉場、わび・さびの境地から「かるみ」に進んでいる。何気ない豊かな日常をうたう。

  • 夕顔や 酔うて顔出す 窓の月
  • くらつぼに、、、
  • 梅が香に、、、

三階には、おくの細道の道中の旅姿を構成した品々が展示してあった。白衣、黒衣、頭陀袋、草鞋、脚絆、手甲、茶人帽、矢立、網代笠。


芭蕉記念館から徒歩で少し歩くと、田河水泡のらくろ館がある。のらくろとは、野良猫の黒の略である。高見沢仲太郎(本名)の成績では、図画が悪かった。当時の図画はお手本に忠実に描くことが要求されたからだ。田河水泡は、人気漫画「のらくろ」を1931年から少年倶楽部に連載を始め、1981年まで実に50年にわたって描き続けている。
初めて知ったが、東中野に住んでいる家の向かいの富士子と結婚したのだが、その兄は文藝評論の小林秀雄だった。その小林秀雄が「「のらくろというのは、実は、兄貴、ありゃ、みんな俺の事を書いたものだ」 私は、一種の感動を受けて、目がさめる思いがした。」と書いている。
田河水泡の影響を受けた漫画家は、赤塚不二夫石ノ森章太郎サトウサンペイ、野中満智子、ちばてつや手塚治虫藤子・F・不二雄などがいる。
弟子では、「さざえさん」の長谷川町子がいる。長谷川町子美術館を訪問したときに、そのことを知り、訪問の機会をうかがっていたのだが、ようやく実現できた。水泡も90歳という長寿だった。

以上、若干のメモ。