「名優・森繁久彌」−全国民に愛された遅咲きの名優の一生

k-hisatune2009-11-30

世田谷文学館で、第11回世田谷フィルムフェスティバル「名優・森繁久彌」が開催中だ。

森繁久彌(1913-2009年)は、「世田谷区船橋に在住」とパンフにあるが、この特集を始めた頃はまだ存命だったということである。
「この度、ボクの古い映画を上映して下さるとのこと、少し照れくさいが、わたしの仲間だった久世光彦さんの展覧会も開催されると伺い大変うれしく、世田谷文学館には感謝申し上げたい。また先般は、マスコミで皆さんに多大なご心配をおかけしましたが、私自身はおだやかに秋をむかえております。」という挨拶文があり、最晩年の名優が正装して写っている。

国民作家という言葉があり、その栄誉を受けているのは、吉川英治司馬遼太郎くらいであるが、国民俳優という言葉があるとすれば、それは森繁久彌しかいないだろう。

1950年代後半から60年代を通じて、映画での社長シリーズ、駅前シリーズ「森繁もの」の人気はすさまじく、55年の18本を頂点として、毎年10本以上の映画に主演している。また、64年の「七人の孫」以来、70年代に入ると、森繁久彌はテレビの人となった。そして、まさに全国民が敬愛する俳優になった。

森繁久彌の映画デビューは意外に遅く、37歳のときに「腰抜け二刀流」(並木鏡太郎監督)で初主演をする。早稲田大学を中退した痕、NHKアナウンサーとなって満州の新京(長春)に勤務し、33歳で帰国し役者を目指すが、なかなか芽が出なかった。

1936年以来、300本を越える映画に出演。
舞台では、「屋根の上のバイオリン弾き」は、900回の公演。
文化勲章受章時の歌「わが胸に あつくもおもく たちばなの きときわ 薫る 人ひとの愛」

森繁久彌は、パチンコのリズムに芸風のヒントを得ている。
「リズミカルな動きと感情の推移」「次にどう出るかわからぬという未来を予測し得ない演技」。サラリしつこくなく点描して行くという二枚目半の芸風を開拓した。
喜劇俳優から、実力俳優へ、そして押しも押されもせぬ、大スターへのぼっていく。この道程も興味深い。


この人ほど、賞をもらっている人もいないのではないだろうか。

この人はただの俳優ではなく、極めつけの文化人だった。
44歳で処女作を発表以来、主要著書は54冊にのぼっている。そのうち、63歳以降の著書が43冊と多い。

森繁久彌語り・久世光彦文」という「大遺言書」「さらば!大遺言書」を読んだ。森繁久彌のつぶやきが聞こえる名著である。この内容は、明日書く。