「学ぶ」力か、「考える」力か−−内田樹「日本辺境論」を読んで

カバーの袖に「読み出したら止まらない、日本論の金字塔、ここに誕生。」とある。読み終わって、そのとおりだと納得した。内田樹の「日本辺境論」(新潮新書)である。
中国、ヨーロッパ、アメリカなど常にどこかに世界の中心を定めて、自らを辺境人として位置づけ、独特の「学び」を続けてきた日本人の長い歴史がある。その学びを忘れて世界を語ったのが日露戦争から太平洋戦争までの時代であり、それが日本の暗黒の時代だった。「辺境人」であることの特質をわきまえてとことんやっていこう、というのがこの本の主旨である。

  • 「私達はたえず外を向いてきょろきょろして新しいものを外なる世界に求めながら、そういうきょろきょろしている自分自身は一向に変わらない。」(丸山真男
  • 「何となく何者かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。」(丸山)
  • 人種や信教や言語や文化を超えるような汎通性を持つような「大きな物語」を語る段になるとぱたりと思考停止に陥る。
  • 「世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできない。それが辺境の限界です。
  • 指南力のあるメッセージを発信するというのは、「そんなことを言うのは今のところ私の他に誰もいないけれど、私はそう思う」という態度のことです。
  • どうして「そういう判断に立ち至ったのか、自説を形成するに至った自己史的経緯を語れる人とだけしか私たちはネゴシエーションできません。
  • 弟子はどんな師に就いても、そこから学びを起動させることができる。
  • さまざまな人間的資質の開発プログラムを本邦では「道」として体系化している。
  • 「学ぶ」力こそは日本最大の国力でした。、、、。ですから、「学ぶ」力を失った日本人には未来がないと私は思います。現代日本の国民的危機は「学ぶ」力の喪失、つまり辺境の伝統の喪失なのだと私は考えています。
  • 日本的コミュニケーションの特徴は、メッセージのコンテンツの当否よりも、発信者受信者のどちらが「上位者」かの決定をあらゆる場合に優先させる点にあります。
  • 表音文字は図像で、表音文字は音声です。私たちは図像と音声の二つを並行処理しながら言語活動を行っている。でもこれはきわめて例外的な言語状況なのです。
  • 日本人の脳は文字を視覚的に入力しながら、漢字を図像対応部位で、かなを音声対応部位でそれぞれ処理している。記号入力を二箇所に振り分けて並行処理している。
  • 従属的・模倣的な「外向きの自己」と、、、、卓説性を顕彰しようとする傲岸な「内向きの自己」に人格分裂するというかたちで日本人は集団的に狂ったというのが岸田秀の診断でした。
  • 列島の「東夷」という地政学的な位置と、それが採用した脳内の二箇所を並行使用するハイブリッド言語によって、「外」と「内」の対立と架橋は私たちの文化の深層構造を久しく形成していたというアイデアです。

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

日本列島の地政学的位置による辺境心理と、その地政学的位置がもたらした漢字とかなの入り混じった日本語を使用する中で身についた独特の脳の働き、これが日本と日本人を形作ってきたというのが、内田樹の行き着いた地点であり、その特殊性を自覚し、突き詰めていくのが我々の進むべき道である、これが内田の主張である。

内田の行き着いた地点には同意するが、モデルにすべき「世界」が見あたらない今、「学ぶ」力の過剰さという現状から脱皮して、この独特の脳の特質をいかすことのできる図という言語を用いて、辺境人自ら「考える」力を養うべきだ思う。