1月5日生まれの人々

思い立って、本日(1月5日)生まれの人を探す。

バーナード・リーチ(イギリス人の陶芸家)は1887年生まれ。
三木清(哲学者・兵庫県)は1897年生まれ。
片岡球子日本画家・北海道)は1905年生まれ。

現在活躍中のところでは、宮崎駿、石川好、高橋三千綱加藤秀樹、沢松和子、南部靖之、塚本慶一郎、などがいる。
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これらの人の人生を追う。

バーナード・リーチ
イギリスの陶芸家。イギリスで美術を学んだのち、明治四二年(一九〇九)来日。陶芸を学び、日本民芸運動に加わる。日本とイギリスの陶技を融合した作風をもち、両国の工芸の発展に尽くす。(一八八七〜一九七九)

三木清
大正-昭和時代前期の哲学者。
明治30年1月5日生まれ。西田幾多郎(きたろう),ハイデッガーらに師事。昭和2年法大教授となり,唯物史観の立場から哲学を論じて論壇にむかえられた。5年治安維持法違反で検挙,20年再検挙される。昭和20年9月26日獄死。49歳。兵庫県出身。京都帝大卒。著作に「パスカルに於(お)ける人間の研究」「唯物史観と現代の意識」「人生論ノート」など。
【格言など】決して失われることのないものが本来の希望なのである(「人生論ノート」)

片岡球子
昭和-平成時代の日本画家。
明治38年1月5日生まれ。吉村忠夫,安田靫彦(ゆきひこ)らに師事。昭和5年院展で「枇杷(びわ)」が初入選,27年日本美術院同人となる。母校女子美大の教授。歴史上の人物を主題にした「面構(つらがまえ)シリーズ」を迫力のある表現で連作し,50年「面構―鳥文斎栄之(ちょうぶんさい-えいし)」で芸術院恩賜賞。57年芸術院会員。平成元年文化勲章。平成20年1月16日死去。103歳。北海道出身。
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哲学者。明治30年1月5日、兵庫県揖保(いぼ)郡平井(ひらい)村(現たつの市)の富裕な農家の長男として生まれる。1914年(大正3)第一高等学校に入学、西田幾多郎(きたろう)の『善の研究』を読んで感動し、17年京都帝国大学哲学科に入り西田に師事した。卒論は「批判哲学と歴史哲学」。新カント派の影響が強く示されているが、末尾で「普遍妥当的な価値は如何(いか)にして個性のうちに実現されるか、これが我々の根本課題である」と記し、早くもそれを超えていく姿勢がみられる。
 1922年から25年までドイツ、フランスに留学、リッケルトハイデッガーに学んだ。留学中から発表していた論稿をまとめて『パスカルに於(お)ける人間の研究』(1926)を処女出版。「意識」に与えられた人間ではなく「絶対に具体的なる現実」としての人間を、「哲学の体系」としてではなく「生」そのものにおいて理解しようとしており、ハイデッガーの影響とともに、三木独自の人間学の出発点が示されている。 27年(昭和2)法政大学教授となるが、このころから「人間学のマルクス的形態」をはじめ多くのマルクス研究を発表、一躍論壇のスターとなった。これは、マルクス主義の理論家福本和夫(かずお)の華々しいデビューに刺激された面もあるが、自らの人間学に物質的な基礎を与えようとする意図を秘めていた。それらは、固定した公式として客観的な法則として理解されがちだったマルクスの思想を、「社会に於(おい)て生産しつつある人間」から出発して「発展の過程にある現実的なる理論」として主体化しようとする試みであった。しかし、正統派左翼からは「観念論の粉飾形態」として厳しく断罪された。
 1930 年、日本共産党に資金を提供したかどで治安維持法違反に問われて検挙され、以後公職を退き、マルクス主義からもしだいに距離を置くようになった。『観念形態論』(1931)、『歴史哲学』(1932)、『人間学的文学論』(1934)などを公刊する一方、雑誌や講座の執筆、編集に精力的に活動した。また、ヒューマニズムの立場にたって、ナチスへの抗議、京大滝川事件への抗議、天皇機関説問題への警告など、社会的にも活発に動いた。37年「構想力の論理」第 1回「神話」を発表し、以後「制度」「技術」と書き継いで、『構想力の論理 第一』(1939)をまとめた。さらに「経験」を書き、「言語」を予告したが未完に終わった。これは、スタイルのうえでは体系的な叙述になっていないが、同時期に並行して発表した『哲学ノート』とともに、自らの思索に一定の形を与えようとする三木の試みであった。
 三木の思想のもっともまとまった叙述は『哲学入門』(1940)にみられる。ここには、終生の師である西田の影響とともに、マルクス体験も刻印されている。現実を「対象」としてではなく、「そこで働き、そこで考え、そこに死ぬる」「基底」とし、「主観的・客観的なもの」としての人間に着目し、世界を創造することによって自己を形成する「技術」の哲学を展開している。この間、近衛(このえ)内閣の政策集団昭和研究会」に参画、理論的主柱となる「新日本の思想原理」(1939)を書き、「東亜協同体論」を提起した。しかし、時代への抵抗は、しだいに絶望感から虚無感へと変化し、親鸞(しんらん)の末法思想へと傾いていく。1945年(昭和20)3月、友人タカクラ・テルをかくまったかどでふたたび治安維持法違反に問われ、戦後も釈放されないまま、同年9月26日東京の豊多摩拘置所で獄死した。64年故郷のたつの市白鷺山(しらさぎやま)公園内に三木清哲学碑が建立された。[渡辺和靖]
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初泳ぎ。今日の一首。
 プールよりジャグジー目当ての高齢者 色とりどりの水着で集う