木下杢太郎−−俳才と画才文才杢太郎 本業医学の道を歩めり

k-hisatune2010-02-06

木下杢太郎という名前は、かすかに文壇史の中に記憶がある。俳人で、医者という程度しか頭になかった。
伊豆の伊東で木下杢太郎の記念館を訪問し、この人物の多才さに驚いた。
明治46年に始めた呉服雑貨の店で、100年の歳月を紡いできたしっかりした建物である。裏には杢太郎が生まれた部屋が保存された170年前の建物の一部も付いている。「米惣」という家業は繁盛していたが、当時はこの伊東の地は、陸路、海路とも東京まで丸一日かかった。

木下杢太郎、本名・太田正雄(1885-1945年)は、8人兄弟の8番目の末っ子である。姉のきんとたけは東京に遊学し、きんは大隈重信邸に寄宿し、たけは萩の舎で樋口一葉と一緒に学んでいる。また、すぐ上の兄・円三は、後藤新平が総裁をつとめた帝都復興院の土木局長で、「隅田川を橋の博物館にする」という後藤の構想を実現した人物である。永代橋などの設計者である。後に事件に巻き込まれて自殺する。帝都復興の人柱になった人物である。またその上の兄・賢次郎は、政治の道に入り伊東市長として活躍している。

一高から東大医学部に進み、41才から東北大教授、52才から東大教授、そして60才で死去、という経歴も堂々たるものだが、彼には多くの分野への興味と、それぞれ一級のあふれる才能があり、そのことが終生杢太郎の煩悶の種であった。

21歳の時の日記には「われかつて医師と画工との間にまよい、ついで医師と文学者との間に迷いき。而して昨夏来また画工と文学者との間に迷う。」とあるように、どの分野にも一流の才能を持っていた。

家族の圧力で本業として渋々選んだ医学の道では、皮膚科の権威となり、水虫をもたらす白癬菌の発見者であり、太田ぼはんの発見者、そしてライ病の研究者でもあった。学問的研究者としては一流の業績を挙げている。真菌学の祖といわれている。

しかし、画才と文才に杢太郎は溢れていた。この杢太郎という筆名は、家族の監視から逃れるためにつけた名前であった。樹下に瞑想或は感嘆する農夫の子、という意味である。文才については、戯曲、小説、随筆、評論、翻訳と何でもござれだった。1907年の新詩社の鉄幹、白秋、吉井勇、などと回った九州旅行、高村光太郎などと開催したパンの会、ライバルで親友でもあった啄木との交流、漱石の教えを受け、そして鴎外を生涯の師として尊敬する。画才を活かした装丁も得意で、白秋、谷崎、小宮豊隆斎藤茂吉などの本の装丁も頼まれている。「日本遣欧使者日記」やルイスフロイスの「日本書簡」などの翻訳、美術を扱った「大同石仏寺」、そして歌集「食後の唄」など実に豊かな才能を感じる。同世代の斎藤茂吉の杢太郎と白秋に影響を受けたと語っている。

「唐草表紙」には、漱石と鴎外の二人の巨匠の序文が載っている。鴎外は「官能的働きが極めて鋭く、且つ豊かで、、、しかし聴官については、作者は一段と高いところにある」といい、漱石は「豊かな情緒を濃やかにしかも霧か霞のように、ぼうと写し出す御手際です」と書いている。

ブルーノ・タウト
「真面目ですぐれた理解力をもっており、日本で最も立派な人物の一人だ。親切で典雅でしかも多力である。」

「百花譜」として872枚にわたって医学用便せんに描き続けた花の絵も素晴らしい。子供の頃からの夢であった画家になっていたら名作を数多く残したであろう。

杢太郎「科学も芸術も其の結果は世界的なものであり、人道的なものである」

この木下杢太郎という興味深い人物を観察すると、興味が広くかつそれに応えるように才能が溢れていると、迷いが多くなると同時にいずれにも没頭できずにいるという不幸も背負ってしまうと感じてしまう。こういう人は歴史に名前が残りにくい。代表作というものの存在が大事だと思った。

今日の一首
 俳才と画才文才杢太郎 本業医学の道を歩めり