「わしが今日あるのは前からの約束だ」-日本写真の開祖・下岡蓮杖

k-hisatune2010-02-14

日本最初の「写真師」下岡蓮杖を記念した「蓮杖写真記念館」が伊豆下田にある。下田湾を見下ろす寝姿山の頂上の平らなお花畑の中にある。下岡蓮杖の一生は、幕末から開国期の世間の変転に沿って、「写真術」をキーワードに数奇な波瀾万丈の一生だった。

下岡蓮杖(1823-1874年)は、勝海舟と同年に伊豆下田に生まれる。
1837年、米艦が浦賀に入港し、幕府は下田に砲台を築く。このとき15才の蓮杖は足軽として採用され、下田砲台に勤務する。
「この世の中には先生と呼ばれる多くの人がいる。、、自分の早く先生と呼ばれる人になりたい、、」
1838年、下田砲台の同心頭の紹介により江戸幕府御用奥絵師・狩野董川の門弟となり絵師の道に入る。

蓮杖は島津藩下屋敷に参上した折、銀板写真を見て、写真は絵筆の及ばぬ妙技があることを知り、写真術の習得を志し師の門を去り、再び外国船と接する機会の多い浦賀平根山砲台の足軽となる。
「写実というならば、いくら絵筆をもって苦心をしてもこれにはかなわない。何とかこの技法を学べないものか」
1846年、米艦二隻が浦賀久里浜に投錨。24歳の蓮杖は幕府の命により米艦を模写する。その後8年間外国船の入港のたびに艦体を図示し、資料を幕府に提出。
「父のいる「浦賀へ外国船が必ずやって来る。ならば銀板鏡の術を学ぶことができるのでは」
1856年、アメリカ総領事としてタウンゼント・ハリスが下田に着任。玉泉寺を領事館とする。
「もうこの実の中に芽が整っているではないか。こんな小さな蓮の実の中でも実った時からもう約束されているのだ、、、」」「わしが今日あるのは前からの約束だ。約束だ。わしは日本人として銀板鏡を作り出す約束があったんだ。、、、そうだ、銀板鏡の秘術を会得した暁には、号を蓮杖と改めよう」
下田奉行所に勤務する蓮杖は、ハリスの侍妾・お吉んお手引きにより秘かにハリスの秘書兼通訳のヒュースケンに頼み、寝姿山の頂上付近で写真の原理を習う。その後、蓮杖は江戸に赴き、恩師・董川の家に寄寓する。

1859年、40歳の蓮杖は横浜に出て、米国人写真師ウンシンの写真器(暗函)、薬品一切を譲り受け、日本人最初の営業写真家となる。46歳のとき、横浜本町に写真館を新築、政府高官、力士、役者等が多数来館し、商売は盛況を極めた。また、蓮杖は製図師ピジンに石版術の伝授を乞い、徳川家康、富士山の図柄を印刷しtれ販売。濃淡を施したものとしては日本初の石版画である。

1869年、47歳の蓮杖は東京・横浜間の乗合馬車事業を開始するが、鉄道の開通によって廃業する。今も残る「馬車道」はその名残。

1872年、50歳の蓮杖はアメリカより優良種牛5頭を輸入し乳製品の販売も試みている。

1874年、52歳の蓮杖はアメリカ人宣教師から洗礼を受け、熱心なキリスト教信者となる。

1914年、浅草で92年の多彩な生涯を閉じる。

写真の開祖は、下岡連城だが、同時代には、長崎の上野彦馬、そして第三の男が函館の木津孝吉である。上野彦馬は蓮杖の人生とは対照的に生涯写真術に徹しており、肖像写真家として坂本龍馬など歴史的人物の姿を多数残した。

この写真記念館では、日本の写真機の歴史を見ることができる。

「写真伝来と下岡連城」(かなしん出版)という藤倉忠明という人の労作を読んだが、写真という分野にも情熱を賭けて人生を燃やした人物がいることがわかった。当時は、秋山真之、好古のような青年があらゆる分野で猛然と勉強した時期である。「自分が一日勉強を怠れば日本は一日遅れる」と真之は語っているが、この言葉は写真という新分野に挑んだ下岡連城にもあてはまる。そういう人生の大きな山脈の中で、日本の文明開化が行われたということだろう。