絹の道を歩く−−「絹の道資料館」(八木下要右衛門)

k-hisatune2010-03-03

八王子市遣水に「絹の道資料館」がある。生糸貿易商人の代表格である、石垣大尽と呼ばれた八木下要衛右門(善兵衛)の旧宅跡に建てられた資料館だ。ここには2階建て洋館風の別館があり(1851年建立)、異人館と呼ばれていたそうだが、今は残っていない。
武州多摩郡遣水村」は、外国からも「江戸遣水」と呼ばれ生糸貿易に携わる多くの商人が出ている。江戸から十二里(48キロ)の宿場町・八王子は、養蚕(蚕を育てること)、製糸、織物を行う中心地であり、江戸中期には「桑都」とも呼ばれていた。ここでは、縞柄の絹織物を商う縞市があり、八王子縞市として名が高かった。多摩織がブランド名。

ペリーの来航によって1859年に横浜が開港するが、1866年には幕府直轄の生糸蚕糸改所が八王子に設置される。甲州街道最大の宿場町であった八王子から、絹織物は、当初は神奈川、そして後に横浜に運ばれた。後にJR横浜線ができるがそれは絹織物を運ぶのが目的だった。

また、横浜からは海外の文物が多量に絹の道を通って伝わってきた。新聞、雑誌、ランプ、マッチ、そして自由思想やキリスト教(1877年にはカトリック教会が八王子に建てられている)までも入ってきて、八王子辺りは先進地域として活気があった。1878年あたりに高潮期を迎えた自由民権運動には、絹の商人、生糸生産者、養蚕家を兼ねた豪農が参加している。絹の道が民権家同士を結びつけた。山口甚兵衛、石坂昌孝、村野常右衛門らの名前が残っている。

絹の道の起点となる大塚山公園には、道了堂という建物があったのだが、今はない。多くの外国人がこの道を通って八王子や高尾山を訪ねたとあり、ドイツのシュリーマンやイギリスの外交官・アーネスト・サトウが訪ねたという記録も残っている。トロイの遺跡を発見したシュリーマンが幕末に日本を訪ねたということをどこかで読んだ記憶があるが、まさにこの絹の道を通ったのだ。

遣水商人としては、八木下要右衛門、平本平兵衛、大塚徳左衛門、大塚五郎吉などの名前が残っている。彼ら遣水商人は、横浜街道、通称浜街道を往復しながら商いを行ったのだが、横浜での商売の相手は、原善三郎である。どこかで見た名前だと思ったら、生糸商として横浜を牛耳っていた亀屋の主人である。亀善と呼ばれ、横浜は亀善の腹一つで動くと言われた人物である。その婿が後の原三渓で、三渓園を残した文化人でもある。

原善三郎は八木下要右衛門に、変動激しい生糸相場について「明日の変化も計りがたし」と書き送っている。明治の生糸貿易の舞台からは八王子商人は次第に退き、原たち手だれの横浜生糸商人たちが主役になっていく。その横浜の生糸商人たちは八王子から横浜への生糸の大量輸送手段として、鉄道建設に動き出す。その主導的な役割を果たしたのが原善三郎だった。その鉄道が横浜線だ。いつも東海道新幹線で新横浜に行くときに橋本から乗っているあの横浜線がそれだった。

当初、日本の絹製品はばらつきが多く、品質が悪かった。フランス人技師ブリューナを招き、1873年に操業を開始したのが、国営富岡製糸工場である。八王子ではその五年後に萩原彦七が機械製糸工場をつくっている。これは後の片倉製糸になっていく。

絹の道を歩いてみた。八王子市の史跡に指定されているのは1.5キロ。このうち特に昔の面影を残す未舗装部分約1.0キロは文化庁選定「歴史の道百選」に選ばれている。20分ほどの急勾配の山道を歩くと、遣水商人、神父、シュリーマン、アーネストサトウなどと一緒に歩いているような気持ちになってくる。開国近代化の道である。

次は、富岡製糸工場や、自由民権の館などを訪問したい。

今日の一首
 何気なく通いし電車横浜線 絹を運びし歴史も知らず