日記を一日怠ればその日はただ水の泡として消える−野上弥生子日記

作家・野上弥生子は、1885年5月6日に大分県臼杵町で生まれ。1985年3月30日に逝去している。あとひと月少しで百才になるところだった。
夫・野上豊一郎を通じて夏目漱石の指導を受ける機会に恵まれる。22歳で「縁」を書いてから99歳で亡くなるまで70年近く小説を書き続ける。20年かかった「迷路」、生涯の傑作「秀吉と利休」などを書いたが、この傑作は77歳から連載を開始し翌々年に賞を受ける。昭和55年度の朝日賞の受賞理由は「70余年という世界にも類例のない長期の現役作家活動を続け、、」だった。

野上弥生子の日記は、38才から死の十七日前まで、実に62年分が、ほとんど毎日あり、119冊のノートに記されている。
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「人間・野上弥生子」(中村智子

「一日のことは、その日だけに生じ、感じ、出逢ふもので、一生にもう一度といふことのないものだけ、どんな無為で変化のない日でも、その人にとっては大切なものと知っていながらこの怠りを繰り返すのは残念である」「一日怠ればその日はただ水の泡として消え」ると言っている。
後に編集者とその夫人が原稿用紙に浄書したところ、二百字詰めで3万8千枚に達した。これは、300枚の本としてみると、63冊分に相当する。
「何を書いても眼高手低の悲しみをかんずる。」「一葉のみが明治大正を通じて唯一の女流作家といふわけではないとおもふ。私などでも、一葉よりは或る意味に於てずっとよい仕事をしているつもりなり。」

一日に二百字原稿用紙2,3枚。多くて5,6枚。
「この頃、ジイドの女の学校と未完の告白をよみつづけてよみ終る。やっぱり叶わないかんじ、、。とにかく、かうしたものを読むとどんな困難を犯しても第一義的な仕事から遠かってはならないといふ勇猛心がふるひ起こされる。」(51歳)
「高い目標をおいて書かなければならぬ、といふことを今更に感じる」(61歳)「かうして見ると、頭脳的な仕事はなんと辛いものかとつくづくおもはれる。」(63歳)
「現在もっている最上の力より以下の仕事をしてはならない、とするリルケの言葉は私たちも死ぬまで忘れてはならないものであろう。」
「日本でも画家は七十八十でなほ本格的な仕事をすてないのに、文学者には一人もないなら、私がその一人になって見ようか。」(70歳)
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野上弥生子日記」を読む 戦後編 「迷路」完成まで(稲垣信子)

昭和21−30年の日記。
「書くまでは思いもつかなかった事が、書くあいだに順々に出て来て、こんな片々たるものでもよい思ひつきであったと自分で考へられる考へや表現がある。それでこそ執筆は怠ってはならない。書かなければ、現はれるものも、現はれないで終るのだから。」
「高い目標をおいて書かねばならぬ、といふことを今更ながらに感じる。私も63だ。、、、今の時間と独居の静寂を利用しなければならぬ」
「まへの夜までは思ひつきもしなかった事が、アタマの中に浮きあがって来る不思議さ。このたのしみがなければ、書くことは苦痛のみにならう。」
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野上弥生子随筆集」(竹西寛子編)から。

野上弥生子の先生は、夏目漱石だった。「先生からこれでよいといわれることが最上の名誉であり、満足であった」

「信条らしきものを無理にあげて見よ、といわれるなら、一つだけは答えることができる。「汝自らを知れ。」」
「私は今日は昨日より、明日は今日よりより善く生き、より善く成長することに寿命の最後の瞬間まで務めよう。」