自分の能力を思う存分使ったということは一度もなかった-新田次郎

作家の新田次郎(1912年-1980年)というペンネームは、生まれた長野県諏訪市の新田の次男坊であるところからつけたものだ。本名は藤原寛人。
中央気象台(現在の気象庁)に勤める役人であったが、1951年(39歳)に「強力伝」で懸賞小説に当選する。その作品が1956年の44歳のときに直木賞を受賞する。その後、二足の草鞋を履き続けるが、1963年から65年にかけて富士山気象レーダー建設責任者(測器課長)となり成功させる。66年に54歳で退職し、その後14年間にわたり作品を発表し続ける。
「富士山頂」「芙蓉の人」「孤高の人」「八甲田山死の彷徨」「栄光の岸壁」「アラスカ物語」「武田信玄」などの作品がある。おじは藤原咲平、妻は藤原てい、次男は藤原正彦
おおまかにいうと、役人として仕事をしながら、44歳で作家となり、その後10年間は役人作家として二足の草鞋を履き、54歳から作家として一本立ちしている。作家としては遅咲きの人である。この新田次郎が、小説家として自分の誕生の過程を64歳のときに誠実に書いた本「小説に書けなかった自伝」(新潮社1976年刊)を、共感を持って興味深く読んだ。

  • 役所では言動に慎み、小説のことを噯気(おくび)にも出さないようにするし、仕事の方も人一倍熱心に勤めていた。
  • 来十年間私は役人作家としても座を守っていた。
  • 退庁時刻が午後五時。国電に乗って吉祥寺の自宅へ帰るのが午後六時過ぎ、食事をして、七時のニュースを聞くと、自分の部屋に引きこんで十一時までみっちりと書いた。四時間以上書くことはできなかった。床に入ると、すぐ寝入ってしまった。
  • 午後五時になって解放されたときは、ほっとした。ああこれから明朝までは自分の時間だと思うと嬉しくてたまらなかった。
  • 四十を過ぎて作家になったのだから、なにか特徴のある作家としての存在を認められないかぎり、必ず脱落してしまうだろう。ではいったいなにを主軸に書いて行くべきかというのが、私に取って大きな課題だった。
  • 役所から帰って来て、食事して、七時にニュースを聞いて、いざ二階への階段を登るとき、<戦いだ、戦いだ>とよくいったものだ。、、七時から十一時までは原稿用紙に向かったままで階下に降りて来ることはなかった。
  • 課長の佐貫さんには、いちいちことわって出て行った。隠すことはよくないと思ったから、なんでも話した。、、、私の小説が載った雑誌は必ず何冊か買って課員に回覧することにした。課員に対して私の夜の仕事を認めて貰うためだった。
  • 当時私は短編長編に限らずすべての小説を書くに当って次のような作業順序によっていた。1.資料の蒐集 2.解読、整理 3.小説構成表 4.執筆。小説構成表というのは、筋書きをグラフ化したもので、横軸(時間軸)に相当するものが頁数になり、縦軸には、人物、場所、現象などに適当なディメンションを与えて設定した。人物の相違は色で書き分けた。
  • 私は小説を書き始めて二十年以上になるが、たったの一度も原稿を遅らせたことはなかった。これは、約束を履行するために安全率を掛けた仕事をやっていたことを示す以外の何ものでもない。
  • 私は、引受けたからには納期は絶対に守るべきだとういう信念を押し通した、、、このためには無理な仕事ははじめから引受けないことにした。一ヶ月に最低一週間の余裕を常に保持するようにつとめていた。
  • 直木賞受賞以来の自分自身の心の動きと、読者の評価を勘案すると、山を舞台とした小説(山岳小説)を大事にしなければならないことがはっきりして来た。、、読者が私に求めるものがなんであるかが、おおよそ分かりかけたような気がした。
  • 小説は書き始めてから十年、気象庁の仕事は三十年だった。この三十年間、自分の能力を思う存分使ったということは一度もなかった。
  • 作家として一本立ちできるぞと青空に向かって叫びたい気持ちになった。小説を書き出してから十六年経っていた。