「それが社会の約束ならば、よし極刑とても甘受しよう」-高村光太郎

高村光太郎については、「智恵子抄」でその詩を愛唱したことがある。彫刻家でもあったが、断然詩人としての顔に親しみがある。高村光太郎に関する書物は実に多いが、多くは智恵子と光太郎との純愛を巡るものだ。光太郎の後半生に訪れた戦時の役割と、その反省の行動についてはあまり知らなかったが、思い詰めて岩手の厳しい山小屋にこもり自らを断罪している。ここではその心の動きを記したい。

高村光太郎は、「戦時下の芸術家」で美術家がとるべき戦時の積極的な役割について具体的に提言しており、また戦後の「暗愚小伝」において尊敬する人(岸田国士)から説得されて「協力会議」に入ることになったこと、会議の実態、そして後悔の念を記している。戦後はそういった過去を償う意味で、自然条件の厳しい岩手の山荘での孤独な生活を送る。そして、8年間のブランクの後で、青森県から依頼された智恵子がモデルのモニュメントの彫刻を作る。ブランクは全く感じることなくすらすらと指が動いた。マイナスであるべきものがプラスになっていた。このような長い時間を経て、高村光太郎はようやく本来の彫刻家に戻ったのだ。
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「戦時下の芸術家」より。

  • 美術による国民士気の昂揚というような事も、美の純粋性によてこそはじめて充分に果せるのであって、美の深慮に基かない作品は結局逆な効果を得るに過ぎない。
  • 戦時に於ける美術の効用の方面を考えると、それは押しなべて人心荒廃の防?と、必死邁往の気の振起とにある。人心に美を浸透させる事に成功すれば、美の力は必ずそういう役目を果たす。戦時大いに美を用いるべし、戦時こそ殊に?漫せしむべきである。私はそういう意味から、一つの議題を今度の中央協力会議に提出して置いた。

「全国の工場に美術家を動員せよ」といいうのが其の議題である。情勢の進むに従って全国は殆ど一つの軍需工場化するであろう。労務に堪え得る者は食糧生産者を除く外悉く皆その労務員となるであろう。その時、重大な関心事は、人がただ機械の延長であってはならぬという事である。機械の延長に過ぎないような感じを人に持たせてはならないのである。

  • 日本全国の工場に真の美を氾濫せしめよ。それは必ずどのような緊迫困苦の時にも人心を健康に保ち、人心を長期の緊張に充分堪えしめるであろう。戦時美術家にはそういう奉公の道もあるのである。

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「暗愚小伝」から 
「協力会議」」
協力会議といふものができて
民意を上通するといふ。
かねて尊敬していた人が来て
或夜国情の非をつぶさに語り、
私に委員となれといふ。
だしぬけを驚いている世代でない。
民意が上通できるなら、
上通したいことは山ほどある。
結局私は委員になった。
一旦まはりはじめると
歯車全部はいやでも動く。
一人一人のもってきた
民意は果たして上通されるか。
一種異様な重圧が
かへって上からのしかかる。
協力会議は一方的な
或る意志による機関となった。
会議場の五階から
霊廟のやうな議事堂が見えた。
霊廟のやうな議事堂と書いた詩は
赤く消されて新聞社からかへってきた。
会議の空気は窒息的で、
私の中にいる猛獣は
官僚くささに中毒し、
夜毎に曠野を望んで吼えた。
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本多秋五
「岩手の山中に自己流てき?して、「それが社会の約束ならば、よし極刑とても甘受しよう」と書いた高村光太郎ひとりが例外であった。」