遠藤周作−グウタラな「孤狸庵」生活と勤勉な小説家人生の両立

遠藤周作は中国・大連で生まれ、灘中学、10歳で洗礼を受けキリスト教徒になる。18歳上智大学予科入学、20歳慶應義塾予科入学、フランス文学科、25歳フランス留学、30歳帰国。32歳「白い人」で芥川賞安岡章太郎吉行淳之介、広野潤三らと第三の新人と言われる)、36歳最初のユーモア小説「おバカさん」、43歳「沈黙」でセンセーションを起し谷崎潤一郎賞、50歳「ぐーたら」シリーズがベストセラーになり孤狸庵ブーム、52歳「遠藤周作全集」、56歳「キリスト  」で読売文学賞、62歳日本ペンクラブ会長、70歳遠藤文学の集大成といわれる「深い河」で毎日芸術賞、72歳文化勲章、、、。

 主な受賞歴を並べてみる。
芥川龍之介賞(1955年)、新潮社文学賞(1958年)、毎日出版文化賞(1958年)、谷崎潤一郎賞(1966年)、読売文学賞(1978年)、日本芸術院賞(1979年)、野間文芸賞(1980年)、毎日芸術賞(1994年)、文化勲章(1995年)。
また、外国からの招きも多い、48才、ローマ法王庁よりシベストリー勲章。53才、ポーランドでビエトゥシャック賞。55歳、国際ダグ・ハマーショルド賞。62歳、サンタ・クララ大学から名誉博士号。68歳、ジャン・キャロル大学名誉博士号。同じく台湾の輔仁大学から名誉博士号。
そして、62歳から4年間、日本ペンクラブの第10代会長もつとめている。

 経歴だけを眺めると、若い頃から順調な作家人生を謳歌したようにみえる。しかし最初からそうではなかった。

 遠藤周作は1923年(大正12年)生まれだから、亡くなった私の父と同年生まれだ。この世代のことは見ているからなんとなく親しみを感じる。
 著作以外に覚えているのは、二つ年上の兄・正介が素晴らしい秀才で東大を出て専売公社のトップにまでのぼりつめており、よく兄弟の比較論が雑誌に出ていたことだ。弟の方は小学校時代から成績はほとんど乙であるのに兄は全て甲であった。
 遠藤自身も「子どもの頃、私(遠藤)は、すこし低能だった。二つ上の兄は秀才だったので、頭が上がらなかった。」とあるエッセイで書いている。
確かに、旧制灘中学卒業後、周作の方は浪人生活3年を経て、慶応義塾大学文学部予科に入学している。父親は医学部に合格したと思っており激怒、勘当される。やむなく友人の利光松男の家に転がり込んでいる。
 「しかるに雑誌が遠藤兄弟を取り上げるのは「学校の成績などあてにならないという見本として晒す魂胆である」と兄自身が嘆いていたことがある。こういう比較ものは、1997年の「追悼保存版 遠藤周作の世界」にも「顔色なし 賢兄の座」というエッセイを兄が書かされていた。この兄も相当な人物であったようだ。 

 劣等生だった周作に母親が次のように言ったそうだ。
「お前は、一つだけいいところがある。それは文章を書いたり話をするのが上手だから、小説家になったらいい」と子どもの頃に言われた遠藤は、その後、小説を次々に発表する。小説とも童話ともつかぬ文章を書いて母に見せると、褒めてくれたので、それを真に受けて、小説家になろうと思い出したのである。「今は他の人たちがお前のことを馬鹿にしているけれど、やがては自分の好きなことで、人生に立ちむかえるだろう」という母親の言葉に励まされたのだ。母親の眼力は大したものである。

 遠藤周作という作家は2つの顔を持っている。「沈黙」「に象徴される信仰を巡る深刻な悩みを描く小説を書き続ける作家という顔と、グウタラで愉快なエピソードで笑わせる「孤狸庵山人」というキャラクターである。

 学生時代に話題となった「沈黙」を読んだ。
 舞台は島原の乱の後の日本。イエズス会の高名は神学者・フェレイラが日本での弾圧に屈してキリスト教を棄教した。その知らせを受けて弟子のロドリゴたちはマカオで知り合ったキチジローと出会い、五島列島に潜入するがやがて奉行所に追われる。処刑され殉教する信者をみてロドリゴは神による奇跡を祈るが、神は沈黙を続ける。ロドリゴはキチジローの裏切りで捕らえられる。牢では自身が棄教しない限り許されず拷問を受け続ける信者の苦痛の声を聞く。人々を救うべきか、自らの信仰をまもるべきか。そしてロドリゴは師と同じく棄教し、痛みに脅えながら踏み絵を踏む。イエスは「踏め」と語りかける。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」。ロドリゴは踏み絵を踏むことで神の教えを理解する。
こういう物語だったが、その時も神の沈黙の意味はよく理解できなかったが、深い作品であることはわかった。

 学生時代に系統の違う2冊の本を続けて読んで違和感を感じたことを思い出した。その答えが本に書いてあった。
遠藤周作をもし人生に好奇心を抱く男の名とすれば、孤狸庵はさしずめ生活に好奇心をもつ男の名であり、この二つの名が矛盾せずに私の顔にペタリとはりつけられている」と「よく学び、よく遊び」という本でその秘密を語っていた。人生にかかわる部分と生活にかかわる部分を分けて書いていたのだった。
 また、あるところで遠藤はグウタラ的作品は、「自分が持っているテーマをいろんな日常生活の中で、それぞれ楽しくわかり易く読んでもらうような書き方」をして、純文学の方は「ほとんど読者を意識しません」と言っていた。本人の頭の中では自己分裂はしていないとのことである。
ライフという言葉には、人生という意味と生活という意味がある。遠藤周作は、この二つのライフを意識して使い分けていたのだ。
 また、年譜を見ればわかることだが、仕事の量が半端ではない。毎年おびただしい量の質の高い作品を絶え間なく発表し続けている。「ぐうたら」などでは全くなく、勤勉な実業人のような仕事人生であった。

この作家は人生に関するエッセイがいい。これもファンが多い理由だろう。
「人間はたくさんの情熱は持てない。たった一つのことで人生を送るより仕方がない」
「今ふりかってみると、まずしいながら私だけの作風をやっとつかむことができたのは50歳になってからである」
「人間は青年時代は肉体で世界を捉え、壮年の時は心と知で世界を捉え、老 年になると魂で世界をつかまえようとする」(思想家シュタイナーの言葉)」
「私の人生のすべてのことは、そう、「ひとつだって無駄なものはな かったと今になって思うことがある」」

 葬儀では「沈黙」と「深い河」の2冊を遺志にしたがって棺の中に入れたという。
 「深い河」はガンジス河、「海と毒薬」は九大医学部生体解剖事件、「侍」は支倉常長、「メナム河の日本人」は山田長政、「王の挽歌」は大友宗麟を描いた作品である。また、織田信長への関心も強い。遠藤は人物を中心に小説を描いていて、その題材はキリスト教に関係するものが多い。「メナム河の日本人」では、日本で最初にエルサレムを訪れローまで勉強した知識人である大分国東のペテロ岐部が登場する。岐部はアユタヤで山田長政と出会っている。
 「小説で書けるものは戯曲には書かない」という遠藤は戯曲を小説よりも高いものと考えていた。小説は、読者は作者の存在を感じることになり、一元的に理解を統一しようとする。戯曲をもとにした演劇は、劇作家、演出家、俳優、観客が同時に参加する表現形態である、としている。劇団「雲」の「黄金の国」は、演出は芥川比呂志、舞台装置は清家清、俳優は寺田農真屋順子、作は遠藤周作だった。

 遠藤は小説一筋というタイプの知識人ではなかった。好奇心と茶目っ気のままに色々な企画を実現している。
 樹座(きざ)という素人演劇集団の旗揚げ、日本棋院関西棋院に対抗するとうそぶいた宇宙棋院の創立(永世名人・名誉会長)、ダンスのサロン・ド・ロア・ポーブル、合唱のコール・パパス、樹座絵画クラブ、詩と音楽の夕べ、ファッションショー、遠藤ボランティアグループの結成、、、とまことに人生を謳歌している姿が見える。
「ある時期から私は自分のなかの色々なチャンネルを一つだけと限定せず、できるだけ多く廻してやろうと考えはじめた。音ひとつを鳴らして生きるのも立派な生きかただが、二つの音、三つの音を鳴らしたって生き方としては楽しいじゃないかと思うに至ったのである。」これがその多彩な動きの理由であった。
「私は自分のなかのいろいろなチャンネルをまわし、人の二倍を生きた気持ちになっている。」その生き方が、ほどよいバランスを保ち、気分を変えながら長く小説を書き続けることができた要因ではないかと思えてくる。

 追悼保全版「遠藤周作の世界」では、三浦朱門「罪とユーモア」、佐藤愛子「五十一歳のわるさ」、矢代静一遠藤周作の裏おもて」、吉行淳之介遠藤周作のユーモアと話術」などが掲載されている。ずいぶんとおかしな人だったようだが、後に夫人が「執筆するところは女が産室へ入ってるときと同じだから絶対出入りするなと申しておりました。」とも語っているように、両面があったようだ。

「特にスランプのひどい日には、思い切って夕方まで遊ぶことにしている。それもダラダラと遊ぶのではなく、徹底的に遊ぶのである。
そして夜になってから、思い切って原稿用紙をひろげる。ひろげて、とに角、何でもいい、書きはじめる。書きはじめている間はまだスランプの気分が残っているが、やがて没頭できるようになるものだ。」
「プロの一生とは不断の勉強の連続だ。、、夜の夢の中でもそれを考えていることさえある。プロとはそういうものだ。」
「いろいろな意味がつながって大きな意味に向かいつつあるのを今、感じる。」

「60歳になる少し前ごろから私も自分の人生をふりかえって、やっと少しだけ「今のぼくにとって何ひとつ無駄なものは人生になかったような気がする」とそっと一人で呟くことができる気持ちになった。」
「年をとっても、第一線から退いても、若い者たちが次々とやってくるようになるためには、仕事関係だけでなく、人間関係でたくさんの若い友人を持っていなければならない。」
良寛の言葉に、「死ぬ時は死ぬがよし」という名言があるが、それに倣って「老いる時は老いるがよし」という言葉を私は老人に贈りたい。」

  遠藤周作学会という学会も存在している。遠藤文学だけではなく、遠藤周作そのひとを対象とした学会だそうだ。このような学会が存在すること自体が面白い。そういう騒ぎを遠藤自身はあの世で楽しんでいるのではないだろうか。

 長崎郊外の外海(そとめ)の東シナ海を臨む断崖の突端に立つ瀟洒な遠藤周作記念文学館。ここから眺める海が素晴らしい。「神様が僕のためにとっておいてくれた土地」と作家・遠藤周作が言った場所である。外海は、250年という気の遠くなるような年月続いた隠れキリシタンの住んでいた町でもある。観音様にマリアを抱かせた像を拝むなど、様々な工夫があった。この地から見える五島列島キリスト者が役人から追われて住み着いた島々だった。
 文学館を歩いているとところどころに小窓があって、青い海が額縁の中にあるように見えて、気持ちが新たになる。
付属の海の見えるレストランで「ド・ロそうめん」を食べる。フランス貴族出身で1868年以来40年間にわたって日本に滞在し、そのほとんどを外海(そとめ)の出津村のために尽くしたド・ロ神父が指導した新しいタイプのそうめんということである。おいしかったが、少しバテレンの味がした。
最後に外に出て海を眺める。120度の青い海原が眼下に広がっている。ここを愛した、1996年に73歳で逝った遠藤周作の余韻を楽しみながら、長崎に向かって車を走らせた。

 人生最後に応諾した著書が「生きる勇気が湧いてくる」だったという遠藤周作らしいタイトルだったが、この中に共感する書きつけがあった。
「私は地方の町に行くと、必ずその町の役場に山城の跡はありませんかと問いあわせることにしている。、、、。その山城をめぐる攻防戦や、そこに拠った一族の歴史をあとで調べることにしている。その結果、それらの場所が私だけの名所旧跡になる。」  
 これが遠藤周作の優れた知的生産の秘密だったのである。独自の情報、独自の現場、独自の資料、そういうものが集積する仕組みを持っていたということだ。